どこまでがルールで、どこからが自由か
とある、サッカークラブの監督と話をする機会に恵まれました。細かい戦術のことや、専門的なことはちょっとわかりませんが、印象に残ったのは「感覚」と「理論」
自由を与える。選手の創造性を引き出すためには、監督の「型」にはめるのではなく、一定の方向性だけを示したあとは選手個々の自由な発想に任せる。一方で、「正解」を出すことに慣れている私たち日本人にとっては、自由よりもルールのもとで動く方が優秀かもしれません。学校教育、受験勉強、社会人になっても同じ。「正解」があって、その正解というモノサシがないと距離間がなかなかつかみにくい。
お話しした監督は現役時代、運動能力に長け、感覚だけでサッカーをしていたとのこと。「監督になってようやくサッカーを深く考えるようになった」と笑っていました。つまり、感覚一本だけではチームをまとめることができないと判断。理論的にわかりやすく、いかに言語化して自分の理想を選手に伝えるかが課題だと語っていました。天才肌の現役時代。そして論理の重要性に気づいた指導者が、「二刀流」としてどんな化学反応を生み出していくのか。
かつてプロ野球では、野村克也さんが「コンピューター」なら、長嶋茂雄さんは「カン(勘)ピューター」として、相入れない二人の戦いは私たちを魅了しました。まさに理論と感覚。水と油のように、ふたりが歩み寄ることはありませんでした。そして「優勝」という結果の数を比較して明らかな差が認められることもありません。どちらが強いのか。その決着は未だ謎のままです。
話を戻すと、監督はその両輪をいかにバランス良く使いこなせるかに腐心している様子でした。感覚派として、論理の大切さに気づき、今はたくさんの人の話や経験を聞いて引き出しを増やしている最中。あの人はなぜこのときにこんな判断をしたのか。自分と比較することで自分との違いが明らかになり、そのギャップを埋めることで引き出しの数が増えていく。論理であり、感覚であり、スキルでありセンスでもある。二つの境界線はあいまいで落とし所が見えにくいものですが、どこまでを自由に、どこからが論理かを見極める作業は、どこか楽しそうでした。
ひるがえって自分はどうか?天才肌では決してない自分にとって論理は拠りどころです。本を読んだりセミナーに通ったり、結果を出している人に会いに行って話を聞くことも同じ。論理を身につけることで、擬似的な感覚を養い、結果につなげようという試みです。論理という引き出しを増やして、後天的にセンスを身につける営みは尽きることがありません。コップにどこまで水が入っているのか?それがわからなければあとどれだけ水を入れられるかは不明です。天才肌であっても理論重視であっても、いずれにしても意識すべき境界線。終わりはないと思いますが、この意識を大切にこれからもがんばっていきたいと思いました。
久保大輔