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暗号『235』とはこのこと。

長々と説明は面倒なので、
暗号『235』について
いきなり正解を書き残す。

暗号『235』は「ページ数」であり
なんの書物なのかを皆は、一様に
頭を巡らせただろう。


ハッキリ言おう。

その書物とは、
『日蓮大聖人御書』それであり、
『235』ページとは
まさに、『開目抄 下』の
『235』ページを示している。

ではここに
その『235』ページの文を残す。

なお、太字部分は御書の本文、
その下は現代語訳とする。

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日蓮大聖人御書 開目抄 下
235ページ

問う大経には(←234ページ末より)
国王に親付し弓を持ち
箭を帯し悪人を摧伏せよと明す、
此の経は豪勢を遠離し
謙下慈善せよと剛柔碩いに乖く
云何ぞ異ならざらん、


「問う、
涅槃経には国王に
法を親しく授(さず)け
付嘱(ふぞく)して、 
弓を持ち矢を持って悪人を
挫(くじ)き屈服させよ、
と明かしている。 
この法華経安楽行品には、 
国王・大臣などの勢力ある者から
遠ざかり離れて、へりくだり
慈善の心を持て、と説いて、
涅槃経の剛と安楽行品の柔は
非常に相反(あいはん)している。 
どうして異ならないであろうか。 





答う
大経には偏に折伏を論ずれども
一子地に住す
何ぞ曾て摂受無からん、
此の経には偏に摂受を明せども
頭破七分と云う
折伏無きに非ず
各一端を挙げて時に適う而已」
等云云、
涅槃経の疏に云く
「出家在家法を護らんには
其の元心の所為を取り
事を棄て理を存して
匡に大経を弘む故に
護持正法と言うは
小節に拘わらず
故に不修威儀と言うなり、


答える、 
涅槃経にはもっぱら
折伏について論じているが、 
仏は衆生に対して
平等に我が子を思う
一子地(いつしじ)に
住しているのだから、 
どうしてまったく
摂受が無い訳があろうか。 
この法華経の安楽行品には
もっぱら摂受について明かしているが、 
陀羅尼品(だらにほん)では、 
法華経の行者を悩ます者の頭を
七分になすと説いている。 
だから折伏が無い訳では無い。 
この二経は 摂受・折伏の
一端をあげているのであり、
摂受・折伏は時によるべきである」 
等と。
章安大師が著(あらわ)した
涅槃経の解釈書には次の様にあります。 
「出家した者でも在家の者でも、
法を護るには、その根本となる
心の所作を第一ととり、 
事相の形式的な戒律などは捨て、
教理内容を中心に大経を
弘(ひろ)めるべきである。 
だから『正法を護持す』というのは 
小さな道義・戒律などに
拘(こだわ)らない。 
それで『行儀作法を修めなくても良い』
と言うのである。 





昔の時は平にして法弘まる
応に戒を持つべし
杖を持つこと勿れ
今の時は嶮にして法翳る
応に杖を持つべし
戒を持つこと勿れ、
今昔倶に嶮ならば
倶に杖を持つべし
今昔倶に平ならば
倶に戒を持つべし、
取捨宜きを得て一向にす可からず」
等云云、
汝が不審をば世間の学者・
多分・道理とをもう、
いかに諫暁すれども
日蓮が弟子等も
此のをもひをすてず
一闡提人の・ごとくなるゆへに
先づ天台・妙楽等の釈をいだして・
かれが邪難をふせぐ、


昔は時代が平穏で、
法がよく弘(ひろ)まったから、
戒を持(たも)つべきであって 
杖を持(たも)ってはならなかった。 
今は時代が険悪で
正法が隠れてしまっているから、 
当(まさ)に杖を持(たも)つべきであり、
戒を持(たも)ってはならない。 
今も昔も、共に時代が険悪であれば、
共に杖を持(たも)つべきである。 
今も昔も、時代が平穏であれば、
共に戒を持(たも)つべきである。 
戒(かい)と杖(つえ)、
即ち摂受と折伏は、時代によって
取捨(しゅしゃ)するべきで、
一向にしてはならない」
等と。
あなたの不審は、
世間の学者も多分
道理だと思っています。 
また、どんなに
諫(いさ)めたとしても、 
日蓮の弟子達でさえ
この考えを捨てきれません。 
一闡提人の様な状態なので、
まず天台・妙楽らの解釈を出して、 
彼らの邪(よこしま)な
非難を防ぐのです。




夫れ摂受・折伏と申す法門は
水火のごとし火は水をいとう
水は火をにくむ、
摂受の者は折伏をわらう
折伏の者は摂受をかなしむ、
無智・悪人の国土に充満の時は
摂受を前とす安楽行品のごとし、
邪智・謗法の者の多き時は
折伏を前とす常不軽品のごとし、
譬へば熱き時に寒水を用い
寒き時に火をこのむがごとし、
草木は日輪の眷属・寒月に苦をう
諸水は月輪の所従・熱時に本性を失う、



一体摂受・折伏という法門は、
水と火の様に相容れないものです。 
火は水を嫌い、水は火を憎みます。 
摂受の者は折伏を笑い、
折伏の者は摂受を悲しみます。
しかし無智・悪人の者が
国土に充満している時は摂受を先とします。 
安楽行品に説かれた様にです。 
邪智・謗法の者が多い時は折伏を先とします。 
常不軽品に説かれた様にです。
例えば熱い時に冷たい水を用(もち)い、 
寒い時に火を好む様なものです。 
草木は太陽の眷属なので、
冬の月に苦しみを受けます。 
諸々(もろもろ)の水は
月の所従(しょじゅう)だから、 
熱い時にその本性を失うのです。




末法に摂受・折伏あるべし
所謂悪国・破法の
両国あるべきゆへなり、
日本国の当世は悪国か
破法の国かと・しるべし。


末法には摂受・折伏
共にあるべきです。 
いわゆる無智・悪人の悪国と、 
邪智・謗法の破法の国の
二種の国があるからです。 
日本国の今の世は、
悪国か破法の国かを
知らなければなりません。





問うて云く摂受の時・
折伏を行ずると折伏の時・
摂受を行ずると利益あるべしや、


問うて言うには、
摂受でなければならない時に
折伏を行じても、
折伏でなければならない時に
摂受を行じても
利益はあるのでしょうか。





答えて云く
涅槃経に云く
「迦葉菩薩仏に白して言く
如来の法身は金剛不壊なり
未だ所因を知ること能わず云何、
仏の言く迦葉能く正法を
護持する因縁を以ての故に
是の金剛身を成就することを得たり、
迦葉我護持正法の因縁にて
今是の金剛身常住不壊を
成就することを得たり、


答えて言うには、
涅槃経に次の様に説かれています。 
「迦葉(かしょう)菩薩が
釈尊に申し上げて言うには、 
如来の法身(ほっしん)は
金剛石(こんごうせき)の様に
絶対に壊れない。 
しかし、まだその理由を
知る事が出来ません。 
どういう訳でしょうか、と。 
釈尊は言われた。 
迦葉よ、よく正法を
護持した因縁によって、 
この金剛身(こんごうしん)を
成就する事が出来たのである。 
迦葉よ、我は正法を
護持した因縁によって、
今この常住で壊れる事のない 
金剛身を成就する事が出来たのである。 





善男子正法を護持する者は
五戒を受けず威儀を修せず
応に刀剣弓箭を持つべし、
是くの如く種種に法を説くも
然も故師子吼を作すこと能わず
非法の悪人を降伏すること能わず、


善男子よ、正法を護持する者は
五つの戒律を受けず、
行儀作法を修めなくても、
当(まさ)に刀や剣(つるぎ)・
弓矢を持って正法を護(まも)るべきである。 
戒律を持った僧が、
摂受を行じて種々に法を説いても、 
やはり師子吼(ししく=折伏の事)を
なす事は出来ないし、 
正法に背く悪人を降んくだ)し
伏(ふく)させる事は出来ない。




及び衆生を利すること能わず、
当に知るべし是の輩は
懈怠懶惰なり能く戒を持ち
浄行を守護すと雖も当に知るべし
是の人は能く為す所無からん、
乃至時に破戒の者有つて
是の語を聞き已つて咸共に瞋恚して
是の法師を害せん是の説法の者・
設い復命終すとも故
持戒自利利他と名く」等云云、
章安の云く
「取捨宜きを得て一向にす可からず」等、
天台云く
「時に適う而已」等云云、


この様な僧は、
自分自身を利する事も、
(235ページ末より)
(↓236ページ)
衆生を利する事も出来ない。 
当に知るべきである、
この輩はなまけ者である。
よく戒律を持ち、清浄な行を
護(まも)っていると言っても、
当に知るべきである。 
この人は正法を護る為に
何もする事はないであろう。 
時に破戒(はかい)の者があって、
折伏を行ずる人の語(ご)を
聞き終わって皆共に瞋(いか)り、 
この法師を殺害したとしよう。
この説法をした者は、
たとえ命が尽きたとしても、
尚、戒を持ち自分自身を利し
他をも利す者と名づける」 
等と。章安は 
「摂受・折伏は、時代によって
取捨(しゅしゃ)するべきで、 
一向(いっこう)にしてはならない」
等と言い、天台は 
「摂受・折伏は時によるべきである」 
等といっています。


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以上である。

言わんとしていることが
理解できたならば
一刻も早く、心改めよ。

さもなければ
私があなたの首を
刎ねればならない。

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