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裏町の大衆中華『新大蓮』のチーフ2

第一幕  メインストリート「イナイチ」


2.はじまりは鶏の天ぷら

『新大蓮』を初めて知ったのは高校に入学して三ヵ月ほどが経った頃のこと。中学の同級生である空本博文が勤めだしたのがきっかけだ。彼は頭から足の先まで絵に描いたような不良少年で、高校入学直後に教師も巻き込んでの乱闘騒ぎを起こして退学処分となり、彼の母親の知人でもあったチーフに拾ってもらったのである。

「学校を首になって中華屋に就職した」という電話をもらい、遊びに行く。すると、空本が「めっちゃうまいもんを食べさせたる」と言って「鶏の天ぷら」なる料理をご馳走してくれた。

で、これが本当に美味しすぎて一目惚れ。斑がなく美しい黄色で、さくさくとしつつもしっとりとした衣。真綿のような柔らかで真っ白な鶏の身からは透明な肉汁が滴り、不思議な香りのする塩(これが山椒というスパイス入りの塩であることを知るのはずっと後のこと)がまた食欲を掻き立てるのだ。そしてこの塩味が白いご飯と怖いくらいに合い過ぎていくらでもお代わりできてしまうから困りもの。おまけに、それまで好きでなかったキャベツの千切りや串型に切られたトマトも美味しく感じるようになってしまった。

鶏の唐揚げではなく、「天ぷら」という言葉も魅力的に感じた。中華は一〇〇%唐揚げじゃないのか。でも、その時のチーフは「これは天ぷらや」と断言。理由を聞いてもいまひとつよくわからなかったのだが、どうやら唐揚げはがりがりと硬い感じなのに対し、天ぷらはさくさくと繊細な歯応えでしっとりとしているようなそうでないような。同じ大人でも、口だけの?高校教師に対し、語らずも腕ひとつでどんな客も喜ばせているチーフがとてつもなく格好良く見えた。

味にもチーフにも心を奪われてしまった僕は、この鶏の天ぷらを毎日でも食べたくて仕方がないわけだが、さすがに何度もご馳走になるのは悪いし、チーフも「なんか食べたいものがあったらいつでも言いや」とやさしく声をかけてくれるものの、そう言われるほどに遠慮があってなかなか言い出せないものである。

そこで僕は、十六歳の頃から勤しんでいた麻雀ゲーム賭博やパチンコにより一層励むようになる。賭け事の相場はだいたい1万円前後。当時の高校生にしてみれば目が飛び出るほどの高額かもしれないが、賭博やパチンコの世界では遊び程度の額だ。僕にとってはバイクのローン、ガソリン代、毎朝夕の二回分の喫茶店代、タバコ代、酒代、そして次なる賭け事の軍資金などとそれなりに日常経費が必要だった。そこに鶏の天ぷら六〇〇円、ご飯大盛り二〇〇円の分も稼がなきゃならない。以前にも増して気合いを入れて賭け事に精を出すようになったというわけだ。

そして、しばらくしてから空本が「料理よりバイクのほうが楽しい」と言って『新大蓮』を退職してしまい、今度は近所の市場の中にあった二輪ショップに転職する。そこで教育的指導も含めてチーフが声をかけてくれたのである。

「バイクと賭け事ばかりではアカン。ちょうど空本君が辞めて人手も欲しいところやし、うちでバイトしてみるか」

僕は二つ返事で働かせて頂くことになった。こうして高校1年の終り頃からめでたく『新大蓮』でバイトを始めることになったのだ。

だが、現実はそんなに甘くない。チーフが大の麺とニラ好きというのがあって、まかないの殆どはラーメンかニラ玉炒め、たまにニララーメン。働き出してからわかったことだが、どうやら鶏肉は想像以上に特別な素材だったのだ。毎朝丸鳥から捌いて切り分けた新鮮なもので、数が限られているのでまかないにするにはもったいない。さらに、衣をつけて油で揚げるのは意外にも手間がかかる。このような存在だから、せいぜい味見と称して客の注文時につまみ食いする程度だった。

が、しばらくして僕は辞める。高校二年になった時に彼女ができたのだ。それまで掛け持ちでしていたレストランの皿洗いのバイトも辞めた。僕らのデートはバイクと喫茶店巡りが多いので本当はお金がもっと必要になっていくわけだが、その分ますます賭け事に精を出すという悪循環に。

お袋からもらっていた一日の昼食費五〇〇円も軍資金とするが当然ながら塵と化す。そのたびにまた、レストランのウェイターや酒屋の配達などと手当たり次第にバイトを探すが、その給料をまた賭け事に捨ててしまう。こんなことを繰り返しているうちに彼女が「やっぱり前の彼がいい」と言って僕から去っていくという目も当てられない悲惨な状況に。

このような荒波の高校生活を送るわけだが、高校三年になる頃にもっと愚かなことをやりだした。

それがバイクレースだった。レースに参加するにはあまりにも莫大な費用が必要だ。ライセンスを取り、専用のバイクを購入し、チューンナップを施し、サーキットまでの交通費やその期間の食費などと際限がない。今考えてもとても手に負えない金額だし思い出すのも怖い。

では、なぜこんな無茶な夢を追いかけだしたかと言うと、やっぱり空本の存在が大きい。彼らとは血のつながっていない家族同然だった。

お互いの家庭環境も大きな理由だったかもしれない。僕は中学二年で親父が急逝し、お袋は身を粉にして働き、兄貴はヘヴィメタルバンドを組んで家を出て行ったまま。お袋には悪いが家は帰る場所という感覚ではなかった。

一方の空本は四人家族であるが、母親が保険屋をやりながらその辺の男を食ってしまうような人。彼の家の台所は狭くて薄暗く、母親のタバコと香水の匂いを含んだ湿気が常に漂っていた。父親は悪い人ではないのだが真面目で無口すぎるサラリーマン。可愛い妹がひとりいたが彼女は当時から自律した大人という感じがした。

他にも三人の友がいた。全員に共通していたのが家に団欒が存在しなかったことだ。だから夜になるとどこかで肩を寄せ合い、居場所を探すかのように夜通しバイクを走らせては、しばしば日本海まで海を見に行ったりもした。夕飯や朝飯はその辺の食堂やファミリーレストランで取り、お金がなければ持っている誰かが補う。でも決してグレているつもりはない。腐るのではなく、どうやって生きていくのかということをみんなでよく話し合った。この仲間でこれからも共に大人になっていくのだと信じて疑わなかったのである。

その中で空本と僕は特にバイク好きで徐々にレースへ憧れるようになっていく。レースの魅力はそのスピード感やマシンの精巧さにもあったが、なによりもレーサーという職業が格好良く思えた。シャンパンを抜き、大勢の人から賞賛され、金持ちになり、そして美女からモテる、はず。

そう信じたのは雑誌や映画の影響が大きく、高校二年のときに公開された映画『汚れた英雄』が決定的だった。ヒーローになるためにはしっかりと身体を鍛えて友人を大切にして練習を真面目にやらないといけないのだと、映画の内容をそのまんま受け取った僕は本当にタバコと酒をやめてリンゴを毎日食べてジョギングを開始する。

高校三年のときには『ライダー』という八ミリ映画も製作してしまうほど、頭の中は「レース&金持ち&美女」のことで一杯。そのためだったらどんな困難も乗り越えてみせると、そう硬く決心し、僕は空本が働く二輪ショップにも毎日のように通い、勝手に店を手伝い、バイクの整備を体得していくのであった。

そうこうしているうちに賭け事もいいが、空本が勤める二輪ショップからほど近い『新大蓮』にあらためてバイトを申し出たわけである。サーキットへ行く際は自由に休ませてもらうことも含めて、チーフは快く引き受けてくれた。

こうして僕は二度目の『新大蓮』バイトに来ているわけだ。目的は鶏の天ぷらから、バイクやレースの資金稼ぎに変わっていた。

つづく

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10代半ばから数々の飲食の現場を経験し、20代半ばで物を書き始める。現在はスパイス料理研究家。1991年『P・AGE・BARA』(大阪府箕面市)開業、98年日替わりインド定食の店『THALI』(三重県松阪市)などなど。お店が大好き。店をやっているすべての人を尊敬してやまない。
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