裏町の大衆中華『新大蓮』のチーフ4

第一幕  メインストリート「イナイチ」

4.阿漕なサ店と大衆食堂の間で

今もそうだと思うが一九八〇年代もやっぱり大衆中華料理店というジャンルは人気で、このような裏町にも何軒かの店がちらほらとあった。

まずはイナイチを西へ二キロほどいったところの店でチーフの先輩が担っていた。車を駐車しづらい環境ではあったものの面積は『新大蓮』の三倍ほどもあり、メニューのアイテムも豊富で味もいいもからよく繁盛していた。

また三キロほど離れた阪急茨木駅付近に『新大蓮』と似た小汚くて狭い中華屋がもう一軒あったがこちらはメニュー味共にそこそこという感じ。地の利の良さもあって客の入りはなかなかよかったようである。が、どれもライバル感覚はない。たまにチーフからこれらの店の噂を耳にしても、それは単に気分転換で食べにいってみたいというそれだけだった。ま、他店を意識するほど店は暇ではなかったといったほうが正しいか。

『新大蓮』の人気の理由は時代性や住宅地と工業が入り交ざったという地域性もあったと思うが、やはりチーフの人柄と腕にあったのだと思う。特に餃子の人気は確固たるモノで。

客層はとてつもなく広い。出前なら団地の住人やパチンコの寮はもとより、界隈の物流倉庫、靴下工場、板金工場、ラブホテルの受付、交番、少年院など。ほか水商売関係者やタクシー運転手からはテイクアウトが、来店客だと九州や関東からの長距離トラックの運転手の姿も多かった。

当時の大阪の餃子はほとんどが分厚い皮に油べっとりで、中身は白菜中心にフードプロセッサーで磨り潰したぬめるような舌触りの餡が主流。しかし『新大蓮』の餃子は、薄めの皮で中身はキャベツのみじん切りが中心だから噛むたびにゴリゴリと野菜の歯応えがする。ニンニクは弱めで青ネギとニラもたっぷりと入れる。肉は豚のミンチのみでラードは控えめだからさっぱりとした口当たりで香ばしさが際立っていた。

焼き方も他の店とはちょっと違っていた。鉄板に微量の油を敷いて、餃子を並べたらまずしばらく焼くのだ。そしてチリチリとしてきたところでけっこうな量の水を加えて、ぶっしゅーと水蒸気が吹き上がると同時に蓋をする。そのまま強火で焼き上げ、後半に火を弱める。出来上がりは音と匂いで判断する。ちくちくと細かい音がして、焦げかけくらいのにおいが漂ってきたら蓋を開けて、今度は餃子用の三〇センチほどのステンレス製コテで鉄板から浮かせ、そこに当たる感触がサクサクと乾いていたら取り出すのだ。

鉄板にあたる腹の部分がこんがりと茶色に焼けていて、薄い皮の淵がパリッとして立っているのが特長である。タレは醤油と酢を割っただけのシンプルなもの。餃子の旨みと香ばしさが半減するのでラー油は特に勧めていない。とにかくチーフの味付けの基本は塩であり、たまに醤油という世界である。

これで一人前八個入り二五〇円という安さだから多い人は一人で四人前食べる者もいた。忙しければ一日にバット一〇枚全部がなくなる。一枚が六、七人前だからざっと六〇~七〇人前だ。餃子の仕込みは日課であるが手間隙がかかるので、待ってもらうこともしばしば。そんなだから予約の電話をしてくる客も少なくなかった。チーフの正確さとスピードにはかなわないが僕も一応は包むことが出来た。

機械に頼らず、ましてや外注なんて発想すらなく(意外にも昔も今も中華料理店では餃子を外注している店が多い)、かといって「不器用ですから」的な頑固を謳うわけでもなく、ただただこれが当たり前だと信じてやり続けていただけのチーフ。人気の高さは客がもたらした結果論という感覚だった。

このような状況であったが、近所にはわずかながらも競い合っていたというかおのずと比較されてしまう店と、もう一軒はっきり言って目障りな店が存在していた。

それがまず隣の喫茶店である。こちらは元々サンドイッチかケチャップまみれのスパゲティくらいしか出していなかったはずなのに、ある頃から店頭に「日替り定食六〇〇円」と大きく書かれたメニューを出すようになったのである。

『新大蓮』の昼の一番人気も日替り定食六〇〇円。ただし、こちらには中華料理といえるものは一品のみで量は半人前ほど。それ以外は業務用のポテサラや冷凍の白身魚のフライなどといったまさに安いだけのサービスランチなのである。それ以外に中華弁当や特別定食なんてセットもあったがこれらはちゃんとした素材で注文後に作るものでそれぞれ一〇〇〇円。

好きな人は昼の多忙な時間帯でもレバニラ炒めとか揚げソバなどを注文してくるが、近くの工場に勤める会社員などの大半はやっぱり最安の日替り定食を目当てにしている。

彼らは必ず十二時過ぎにやってきて、遅くても十二時五〇分には店を出なければならない。多い日は一〇人以上が並び、とにかく味の確実性とスピードが大切だった。隣の喫茶店はおそらく、この列に手を出してみたくなったのだろう。

前に立てかけられたメニューには「白身魚のフライ、サラダ、味噌汁、ごはん、漬け物」などと書かれているだけで写真なんてあるわけがない。ま、当時は街の人気店で写真入のメニューを貼るような店は希少だったが。

あるとき、僕が食べに行こうと思いチーフに声をかけると、「行かんほうがいい」といわれた。隣付合いもあるので、すでに一度食べに行ったらしい。同じように業務用の冷凍フライを使っているようだが衣はベちゃべちゃで、ご飯は臭く、薄い味噌汁には気持ち程度のワカメが浮いているというシロモノらしい。

あともう一軒はパチンコ屋のすぐ隣に『新大蓮』の倍ほどの面積を持つ二四時間の大衆食堂だ。が、信じ難いことにこちらはしばしば腐ったものを出すことで有名だった。それは総じて夜の話であって、昼間も腐ったものを出していたかどうかは不明だが、特に深夜遅くにその店で飲み食いした客が店を出たとたんに吐き戻すなどということがしょっちゅうあった。酔った客が血迷って〆の食事に入ってしまうというパターンだと思われる。

だいたいは呑みすぎが原因という風に店の人間が揉み消すように言い触らしていたというから相当にたちが悪い。それでも大きな看板を毎晩煌々と灯し、なんだかんだいって特にパチンコへ行き浸っているような客をたくさん取り込んでいたからすごい店である。

この店とよく比較されていたことがちょっとつらい。インドじゃあるまいし、とんでもない時代というか、まぁそういうエリアなのである。

つづく

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10代半ばから数々の飲食の現場を経験し、20代半ばで物を書き始める。現在はスパイス料理研究家。1991年『P・AGE・BARA』(大阪府箕面市)開業、98年日替わりインド定食の店『THALI』(三重県松阪市)などなど。お店が大好き。店をやっているすべての人を尊敬してやまない。
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