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感謝の風の手紙

最近、西国三十三所巡礼なるものを始めました。いや、なんの信仰心も目標もありません。とりあえず寺社のある場所は空気がよさそうだし、黒柴犬のクロも喜ぶし。山登りじゃきついけど、足腰の弱いカミさんにはちょうどいいかなと。そんな車とうまいもんが最優先のチャラチャラ巡礼です。

それはそれで、巡っていくうちに少しずついろんな発見があってなかなか面白いです。

一つは、どうやら三十三所巡礼の中に数えられている寺社はどれも神仏習合の時代ということ。いや全部かまだ分からない。今のところ10ヵ所巡って全部がそうでした。だから一応は〇〇寺といえども境内に神社もあります。

そしてどこへいっても観音さん。観音さんといえば僕はなぜか美輪明宏さんを思い出しますが、どうやら「西国三十三所観音霊場」という言葉もあるようで、もしやこれこそが本場?

創建されたのは4世紀から8世紀ころのものが多いようです。なんと古墳時代から奈良時代くらいと実に古~い。いやぁ日本もすごいんやな~なんて。

ね、こんなレベルです。お詳しい方、ちゃんと巡礼されている方、怒らんといてくださいませ。

で、ここからは僕っぽい話なんですが、この三十三所を巡っているうちに気になりだしてきたのがインドです。なんだ、昔からインド人たちとの交流が深く職業もインド系スパイス料理研究家なんだからインドが気になるのは当たり前だろ。仏教はインドからきたんだし。と突っ込まれそうですが、だからこそ僕としてはインドは横に置いておきたいというか、忘れてフラフラしたい感じなんですけど。

仕事のことを考えたくて西国三十三所をぶらつきたいわけじゃないですから。

でも歩けば歩くほどインドが追いかけてくる。

まず筆頭は弁天さんです。今のところ10寺すべてが境内に弁天さんが鎮座しているのです。それは弁才天のことで女性の姿をした神様。元はインド・ヒンドゥー教のサラスヴァティ神のことで日本にきてから弁天さんとなったものですね。七福神の中で唯一の女神。

サラスヴァティは水の女神ともされ、日本の弁天さんは水子供養の神様という位置づけでもあります。

なぜそこそこ詳しいかというと、我が母校(中学)が大阪・茨木の辯天宗本部のすぐ横にあったから。僕は水泳部に入っていて、冬期のトレーニングは毎日辯天さんのどこかでやってました。むろん当時は水の女神であることは知らずに。

ほか西国三十三所巡礼の第一番札所であり熊野三山の一つとして有名な世界遺産、那智の青岸渡寺を開山したのはインドからやってきた裸形上人(らぎょうしょうにん)だそうです(4世紀)。

また青岸渡寺本堂のすぐ隣にも祀られていた大黒天もよく見かけます。これはインド・ヒンドゥー教の三柱の主神、シヴァ神のこと。シヴァ神といえばインド人やネパール人の厨房や台所によく貼られているカラフルな神様のイラストを思い出します。あの紫色の肌の神様です。

これは宇宙の摂理、破壊・創造・維持の中の破壊の神様であり、インドではめちゃくちゃ信奉者が多く、そこいらじゅうにシヴァ神を祀る寺院をみかけます。シーク教やチベット仏教でも信仰されているというし、日本でも七福神の大黒さんとして(元は出雲大社の大国主神)有名。実にスケールがでかい神様ですね。

あ、今思いだしたのですが、90年代に僕が大阪・箕面で経営していた『ピーエイジバー』が燃えてしまった(火災事故)時には、隣の池田市の出雲大社池田大教会にお祓いにきていただきました。あの時は確か、店内はほぼ全焼ともいえる惨劇に落ち込む僕を励ますかのように消防署員が「良い神社紹介したる」といってその神社を教えていただいたのでした。そうか、あの時助けていただいたのはシヴァ神だったのか。

極めつけは10寺めとなった、奈良・高取町の壷阪寺(南法華寺)です。こちらはもう境内のどこへ行ってもインドインド。

境内のどこにいても目に入ってくる高さ20mの大菩薩石造は、南インド・カルカラ産の石を、インドの文化勲章受章者であるシェノイ氏率いるインドの石工延べ7万人が彫り上げ、66個に分けて日本へ運んだものだとか。そのすぐ前に鎮座する約8mの涅槃石像、もう一つのシンボルともいえる台座含めて高さ15mの大釈迦如来石像もインド製らしいです。そのせいか、釈迦の顔つきもどことなくインドっぽく見えてくるんですよね。

慈眼堂にかけられる数々の絵はインド・ムンバイのカーマット氏作。釈迦仏伝図ということですが、そのカラフルさと人物の絵の雰囲気は殆どインド・ヒンドゥー教のものと酷似。

そして本堂や三重塔がたつ敷地の壁に埋め尽くされた全長50m高さ3mにも及ぶ石彫刻。このレリーフもまたインド製で中身は釈迦一代記とのことですが、もう僕の頭の中はインド・アジャンタの石窟群か南インド・マリーバリプラムの遺跡群にいるかのような感覚に。

最後には天竺門と書かれた門が現れ、とりつかれたかのようにくぐりまして、上った先に見えるは納骨永代供養塔の大石堂。こちらはまさにアジャンタ石窟群をモデルにして同インド製の石1500tをくみ上げて作られたものだというのです。こうなると我が家系の骨がなくとも思わずお賽銭&合掌。

壷阪寺は眼病封じのご利益がある寺とも言われているそうなのですが、まさに眼を見開きまくるお寺でした。

このように神聖なる巡礼も僕がやると、インドに呼ばれる旅となってしまうのでした。

ところで10ヵ所目となる壷阪寺ですが、十一面千手観音菩薩を本尊とする灌頂堂で面白いものと出会いました。それはお堂の左端にある小部屋です。ちゃぶ台と座布団が置いてあって、入口に「感謝の風の手紙」と書かれた立て看板があるのです。

普段は仁王にそっくりなカミさんの顔がふっと柔らかとなり、「私ちょっと書いてくる」と言って入っていきました。なんのこっちゃと看板の説明書きを読めば、「亡くなった方、お世話になったけど音信不通の方に感謝の意お手紙を書いてみませんか?お手紙は年に一度、納観音ご縁日の大どんと(歳徳)にお供えして焼尽します」とありました。

これを読んだ瞬間胸がギュッとなって、ある二人の顔が思いつきました。それは又吉和男さんと宮川アキラさん。前者は僕が1990年頃から通っていたカレー店「タンダーパニー」(大阪・吹田)の店主です。当時では珍しいホールスパイスがごろごろと入ったインド式のカレー。僕が最も影響を受けたカレー店で、飲食業時代は作り方を、ライター時代は何度も取材させていただきました。家庭のこと仕事のこと何でも話せる、まるで親戚のおじさんという感じで本当に心の支えとなっていただいてました。

そして後者は、主に東南アジア・スパイス料理の師匠であり、カミさんと出会うきっかけとなった方。料理以外に大工仕事も得意で、僕が三重・松阪でインド料理『ターリー』を開業するときも、東京から何日も泊り込みで手伝いにきてくれました。カミさんは元々アキラさん夫妻の友達。で、結婚する際には仲人もしてくれた大の恩人です。

お二人とも昨年2022年に続けて他界。コロナ禍ということもあり、最期お目にかかることはできませんでした。僕にとっては本当に大切な家族のようなお二人でした。

おっといけない。白昼の寺院で泣きそうです。

しばらくして、目を赤らめたカミさんが小部屋から出てきて「あんたは書かないの?」というので、思わず、ふんそんなもん要らんわと返してしまいました。

本当はお二人に感謝の気持ちを伝えたくてしょうがない。僕の人生にとってあまりにも大きな存在だったお二人に。

なんやチャラチャラ巡礼のつもりだったのに、頭の中は、インド、スパイス、感謝で一杯。実は最近、僕はもうスパイス料理研究家を名乗りたくないと思っていたのです。が、もう少し名刺を捨てないでおこうと思います。

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町の灯り


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