見出し画像

スパジャー誕生物語 #1

①創刊への道のり
②なぜバイリンガルにしたのか
③“スパイス”がテーマの媒体を考え付いた背景

①創刊への道のり

 スパイスジャーナル(愛称スパジャー)(2010年3月25日~2015年1月29日)とにかく斬新が詰まった本でした。どんな本かと言うと以下のとおりです。

・当時はまだなかったスパイスというニッチなテーマ
・スパイスにまつわる紀行
・スパイスに関する人々に注目
・歴史や原産地というあいまいな話ではないスパイスの実用辞典
・スパイス料理の栄養評価付きレシピ
・近畿大学薬学部とのコラボスパイス研究
・辛口マンガ
・ヨーガは心のスパイスだ
・イラストスパイスレシピ
などなど

などと、テーマは絞り込む一方でコンテンツはフレキシブルでとにかく幅広いのが真骨頂です。

そしてスタイルも斬新でした。

・それまでタブーと言われた小サイズA5判型オールカラー
・取次が絶対必須と言われた時代に手売り&定期購読
・スパイスを付録(希望に応じてブレンドスパイスやカレーキットなど)
・書店へは通常委託取引のところすべて直販の売り切り
・完全英語バイリンガル(vol.00~08はイギリスNick Musty、09~17はアメリカAlex Mearnの各英語)
・英語と日本語の完全並列デザイン
・表一(表紙)はすべてスパイスの写真掲載(6号のみ例外)
などなど

 多くの料理研究家や出版社なども定期購読していただいてました。また、この本をきっかけに僕はテレビやラジオに出ることも増えました。

 休刊してからの5年はイベントや料理研究開発、雑誌や書籍の執筆など、時間の感覚がなくなるほど忙しく楽しく過ごさせてもらいました。おかげさまです。本当にありがとうございます。

 と本の紹介はこの辺までにして、ここからは「スパジャー誕生物語」として、あらためて創刊した理由について何度かに別けてお話していこうと思います。しばらくのあいだお付き合いください。

===============================

 時は遡って1999年頃。僕は縁あって三重県松阪市で小さな日替りインド定食屋『THALI』という店を営んでおりました。公私共にお世話になり信頼を寄せていた師、柏木氏からこんなアドバイスを頂いたのです。

「そろそろ自分で媒体を作ってごらんなさい。いろいろやってきたんだから、これからは自分らしくやっていいんだよ」

 柏木さんというのは、無駄口を一切言わず、嘘が嫌いな人でした。代々の江戸っ子で、元は大手出版社勤めだったけど、晩年は大阪ミナミで小さな蕎麦屋を営んでいました。客より先に酒を飲んでしまうし、蕎麦を湯がく釜は毎回吹きこぼすなど、そば屋としてはちょっと不良、いや致命的なおやじ。でも、誰よりも信頼のできる、とても格好いい人でした。

 僕は教えられたとおりに準備を進めました。そのときに創り上げたのが、仮称「ウエストミーティング」という冊子です。すべてスパイスをキーワードにしつつもジャンルを超越したたコンテンツでした。当時のレイアウトは右面から縦組みの日本語、左面から横組みの英語というバイリンガルデザイン。

 普通スパイスというとインドやネパールのイメージになりがちですが、ここでは様々な国の音楽やグラフィックデザイン、家具、食器、旅などと、テーマは多岐に渡っているのが特長でした。

 手造りの見本誌も出来上がり、柏木さんからOKももらいました。

 ところで本を作ることはできても、印刷方法や配布方法がわからない。広告を募ってフリーペーパーにするのか、それとも販売するのか。となるとどこでどうやって売るのか。そもそもどうやって運ぶのか。印刷はどこで。保管場所は。その他たくさんの未知なる壁が。

 柏木さんはこういいました。

「とりあえず印刷屋に見積もりしてもらって、1口1万円ずつ募ってなんとか資金を集めちゃう。で、まずはフリーで全国の書店に配る。300店舗くらいなら俺が紹介してあげるから、50部か100部ずつとして15000か30000部で費用を計算してごらん」

 300店舗なんて数字が、なんの抵抗もなくすらすらと出てくるところが格好いいと言えばそうですが、でも柏木さんはいつも酔っているのでちょっと怖くもあります。

 僕は忙しい合間を縫って印刷屋を探し回りました。当時はインターネットやSNSはまったく発達していない時代。出版社のホームページさえも殆どなかったようなレベルです。なので、とにかく自分の足と嗅覚と人の縁がすべてでした。

 で、結果はどうだったかというと、製本ができるような印刷屋さんは数少なく、あったとしてもなぜか一見さんはお断りか、先に予算を見せろとか、定期で出す保証をしろとか、全然話にならない。

 で、なんとか頼み込んで見積もりをしてくれる業者がでてきたのはいいですが、見ると30000部で150万円くらい! A4カラー16~24ページの中綴じでですよ。

 その後も暇を見つけては色んな方法で印刷業者を探しだし、いくつかが見積もりをだしてくれて、最も安価なところで80万円くらいになりました。ちなみに今ではおそらく50万円、いやそれ以下でできると思います。

 とりあえず100万円を目標に僕は思いつく場所や頭に浮かぶ人たちのところへお願いに周ります。しかし、当時、個人がフリーペーパーや媒体を創刊するなんて夢のまた夢のような話。結局集まったお金は30,000円でした。

 時は2001年となり、いろいろあって松阪の店をしまい大阪に戻った僕は、これまた色々あってライター業を再開。毎週のように東京と大阪を行き来するほど忙しくなっていきました。そして徐々に本を作ることが億劫に。

 その後、柏木さんは何もなかったかのように酒を飲んでは頬を赤らめにんまりとするだけ。で、僕の顔を見るやいなやコップを渡して、ビールをゆっくりと注いで「ほら、乾杯」と一言。

 もう忘れてる?いやただのんびりしてるだけ??いやいや、頼れるようで頼らせてくれない?!優しいようで厳しい!??

 柏木さんに対し僕はいつも戸惑っていました。こうして、いつのまにか媒体創出計画はお蔵入りになったのです。

 そこに突然悲劇が起こります。2004年、柏木さんが急逝してしまったのです。なんとも不思議な話ですが、誰も理由がわからない。わかっていることは、死ぬ直前に、東京のご子息(次男さん)からようやく結婚するという報告をうけ、至福の酒を飲み、その帰り道で転んでしまった、ということだけ。おそらく頭を強くぶつけてしまったのだろう、となるわけですが、詳しいことは本当に誰にもわからないのです。

 師のまさかの他界からしばらく。多忙に甘んじながら、気が付けば2009年になっていました。年の暮れ、世話になっていたウェブ関係の会社経営者の方と新宿で飲んでいた時のこと。

 なんかの話の流れで「ところでカワムラがやりたいことって何?」となり、そういえば俺、なんかし忘れてるような・・・。なんでしょうね、なんて惚けて話しているうち、ふと思い出したのです。

 そうだ!柏木さんと立ち上げようとした「ウェストミーティングだ!」。この話をすると、その社長さんは「それですよ。それ!僕が協力するからいますぐやろうよ!」といって背中をおしてくれたのでした。

 僕は迷わず前を向きました。

 時代は以前とはすっかり変わっており、このとき、オフセット印刷で色校正までを経ても約40万円と、以前とは比べ物にならないほど価格破壊していたのです。今ならいける!

 そう確信した僕は年末から全力で準備を始めました。最も心強い仲間は旧友のグラフィックデザイナーNくん。世話になっていた雑誌社の編集者が一人ちょうど退職したので彼にアシスタントを頼みました。以前から仲良くしていた管理栄養士の女性。友人の弟の薬学博士。ヨーガ仲間のM夫妻。そして『THALI』時代の常連客の諸外国人たち。役者はばっちりそろっています。

 こうして翌年2010年3月にめでたく創刊したというわけです。

 最初はタブロイド判でと考えていましたが、お世話になるウェブ会社の女性スタッフたちから大反対を受け、結局カバンに入る可愛いサイズをということでA5判型になりました。

『Spice Journal スパイスジャーナル』はこうして誕生したのです。

②なぜバイリンガルにしたのか
Spice Journal Top Page

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?