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村上春樹『ノルウェイの森』解釈とか考察とかキャラクターの位置づけとか

長くなったから目次をつけたいんだけど、どうやってつけるんだろ。
まあいいか。長いです。

10年ぶり(たぶん。中学生の時読んだので。)
に村上春樹の『ノルウェイの森』を読み返し、色々思うところがあったので、それを色々書いてみようかと思いました。

思うところがあった、というのも、
私は院での研究でショーペンハウアー哲学を中心に研究しているのですが、
自分の研究に「生と死」がおよそ主題として通底しているためだと思います。
(というよりむしろ、10年前に読んだ『ノルウェイの森』に無意識に引っ張られて
「生と死」を勉強しているのかもしれない、まである。)

んで、売れている本故に色々解説してくれている人はたくさんいらっしゃるのですが、
解釈がぴったり同じということはあるわけもなく。面白かった。
だから、自分でも感想やら解釈やらつらつら書いてみようというわけです。
誰か1人くらい、面白いと思ってくれるかもしれない。

がっつりネタバレしていきますので、
ご了承くださいますよう。


〈あらすじ〉

は、有名ですし、一本筋を通して説明するのも難しいし、長くなるので簡潔に。
(ググればすぐ出てくると思うので、よろしく)

主人公は三十代。ドイツ行きの飛行機の中で、ビートルズの『ノルウェイの森』を聴いて戸惑う。
大学生のとき、親友の恋人である直子と東京で再会した。
そこからの1年間を思い出すお話。
全2巻で構成されています。

村上春樹の作品はいくつか読んだけど、中でも異色らしい。
作者本人に「徹底的なリアリズム小説」と言わしめたらしい。
余談だけれど、当クリエイターの一番売れた作品ていうのは、往々にして「その人らしくない」作品であることが多い気がする。

感想やら考察やらに戻ります。
こんな野暮は言いたくないけど。わかりやすくしてしまうと感動や独特のディティールはなくなってしまうのだけど。

納得するためには仕方がない。

というわけなので、わかりやすくするために極端にしてみると、
『ノルウェイの森』は4つの極を持つ
と私は解釈しています。
左右に「生と死」、上下に「個と全体」の極です。


〈生か死か〉

書いてしまうとありきたりなような気もしますが、
まあ「直子」が死の象徴であり、
「緑」が生の象徴なのは明らかです。
エロスとタナトスですね。

直子は生活感が無く、ワタナベと触れ合うも、セックスはおろか、欲情することもできません。
(二十歳の誕生日を除いて)

緑は一方で生活感に溢れていて、「好きな人がいる」ワタナベとほとんど触れ合わず、にもかかわらず性的な言動が目立ちます。

でもそれだけにとどまらなくて、本書はこのモチーフが複雑に絡み合っているから、深みがあって面白い。
単純に緑がエロス、直子がタナトスなのであれば、実写版のキャスティングはどう考えても間違い。
人間味も色気もある菊地凛子がタナトスの直子で、お人形さんみたいにかわいい水原希子がエロスの緑を演じるなんて。
しかし、菊地凛子も水原希子も良かった。だから間違いじゃなかった。

つまり、何が言いたいかって、
・緑は緑でエロスとタナトスが交差していて、直子は直子でエロスとタナトスが交差している
・その交差の仕方が直子と緑では対称的なんだ
・主人公ワタナベから見て
↑これが非常に重要
ということです。

ワタナベはそれに引き裂かれたり、揺さぶられる存在ですね。
ワタナベを中心として「生か」「死か」を横軸にして見ていくと、風変わりな登場人物たちは割と容易に位置づけることができます。

でも上記はあくまで「ワタナベから見ると、」なわけであって、
「直子」はワタナベから見て死のベクトルを持つにすぎず、
「緑」はワタナベから見て生のベクトルを持つというに過ぎないのです。
彼女たちも生と死に引き裂かれたり、揺さぶられたりする「生者」には違いない。

直子は生と死に引き裂かれて心を病み、その結末として、死んでしまった。
キズキは勿論、自分のお姉さんがなんで死んだのかも直子はわかっていない。
そしてレイコさんの話によれば、死ぬと決めてからの直子の様子は清々しく、「とても可愛かった」。
キズキのいる世界、死に傾くことを決意したからだと思ってます。
引き裂かれる辛さからは解放されたんでしょう。

他の登場人物も同じように言えます。
レイコさんや永沢さん、ハツミさん、突撃隊の役割がわかりにくいのは、
彼ら彼女らもあくまで生者であって、人間であって、生と死とに引き裂かれ揺さぶられる存在だからです。
これは詳しくは後述。

キズキは言わずもがな、ワタナベから見て「死」の極に限りなく近い人物。
(直子から見た直子のお姉さんもそうです)
彼らは文中に台詞を持たず、自殺した理由は登場人物によっても一切語られない。
この、「語られていない」というのを私はかなり強く読んでいます。
「語られていない」のはきっと、「死」が何らの積極的なイメージを何も持たないからです。
登場人物たちはあくまで生者である、というのも、死が「死」と言う以上には積極的に言葉にできないためです。

著者が作中唯一強調して述べているように、

死は生の対極ではなく、生の一部として存在している。

上巻

対極でないのにもかかわらず、我々を引き裂いたり揺さぶったりしてくるものなのです。
たぶん。
冒頭直子が話していた井戸のような感じで。
どこにあるのか誰も知らないのに、ぽっかり。
「死んだ」というのは、
お葬式や、神妙な顔や、そういった何らかの「積極的なイメージ」を持ち得ないんです。
あくまでも「いない」とか「わからない」とか、欠如態、消極的な仕方でしか表せないのです。

そうなると、「突撃隊はどうなったのか?」
という『ノルウェイの森』きっての謎も、「はっきりさせなくていい」ということがはっきりします。
彼も最序盤に登場し、序盤の内に何の理由もなく、プレゼントの蛍だけを残してフェードアウトするわけですが、
「死んだ」という言葉を使わず、キズキやお姉さんや直子と重ねているんですよね。
「死んだ」と言ってしまうと既存の世俗的な死になってしまうから。
著者は象徴としての「死」と、ただぽっかりといなくなってフェードアウトすることとを、重ねているのだと思います。

突撃隊は、「潔癖」で、「ポルノのポスターを嫌い」、「ワタナベの前からいなくなった」こと、それだけが肝心なんです。

ホタルは死を連想させる虫ですしね。


〈個か全体か、努力か労働か、〉

生か死か、を「横軸」と書きましたが、
じゃあ「縦軸」が何か。
私は「個か全体か」だと今の所思っています。
「個」は時と場合に応じて「活き活きとしている」とか、「未熟」「青さ」「不安定さ」と換言可能かもしれませんが。
従って「全体」も「穏やかに馴染んでいる」とか「成熟」「安定性」と換言できるかもしれませんが。
(※厳密にいえば、「成熟の質」に極端があると言ってもいいかもしれません。
その意味では別にどっちが未熟でどっちが成熟だってかまわないのですが、便宜上。)

縦軸についてはまだ適切な語彙が浮かびません。

でも私がそう考える所以はあって、それは
・永沢さんと緑のお父さんの対比
・ワタナベとレイコさんが寝た理由
です。

ひとつめ、緑のお父さんとのエピソードは、私が作中もっとも好きなところです。
緑のお父さんが死んでしまった後、
ワタナベはテレビでドイツ語の勉強をしている永沢さんと話します。
そこで語られるのは、努力と労働の違いです。
永沢さんは、誰しも「努力をしない」と言います。
ワタナベが「みんなあくせく働いているように見えますけど、」みたいなことを言うと、
永沢さんは「あれは単なる労働だ」と言うのです。
ワタナベは、努力っていうのは例えば外務省の内定が決まっているのにドイツ語の勉強をするといったことですね、と納得し、
緑の父親は努力と労働の違いについてなんて思いもよらなかっただろう、と考えます。

この対比も、生と死の対比の影に隠れつつ、表現を変えつつ、効いているように思うのです。
努力と労働。
冒険と安定。
聖と俗。
賢さと愚かさ。
若さと老い。
強さと弱さ。
個と全体。

永沢さんは努力の人かつ、孤高の人です。
活き活きとして、ワタナベの言葉を借りれば、
「誰よりも高潔な精神を持っていて、それでいて誰よりも俗物だった。」でしたでしょうか。
夢とかではなく、自分の能力を試せるという理由で外務省に内定を取りました。
永沢さんの功績や何かは遺っていくわけです。
(永沢さんはきっと生涯独身で、子供は遺さないんですけどね。)

対置されるのは緑の今にも死にそうな父親です。
ワタナベいわく「廃棄されるのを待っている家具」であり、
台詞は他の登場人物と一線を画す山括弧書きです。
あくせく働き、静かに死にました。
彼が遺したものは、古ぼけた本屋と一風変わった娘(緑のこと)だけです。

ここからが重要。
通常、ここで言った「全体」は「死」と、
「個」は「生」と重なると思われます。
永沢さんと緑の父の二項対立はそれに倣う仕方で対置されます。

しかし、永沢さんと緑の父親以外の登場人物は、それが重ならないのです。
おそらくあえて、重ねていないのです。
『ノルウェイの森』は、登場人物たちが矛盾に引き裂かれるお話だからです。

ワタナベとレイコさんが寝た理由は、そこにかかってくると考えています。

レイコさん。「死」の極であることは一目瞭然ですが、もう一方の極は実は「個」だと私は思います。
ピアノで登り詰められなかった「努力」の人です。
「楽な仕事だ」というレコード屋のバイトと、日雇いの肉体労働に励むワタナベとはこの点で対照的。
だから直子と同サイドであるはずなのに、違和感が多すぎる。
ワタナベはレイコさんと寝た翌日、別れ際に言います。
「レイコさん、あなたはまた恋をすべきですよ」と。
ワタナベより見て年配であるレイコさんを、「若さ」「努力」の人だと見通した描写なのではないか。と私は思っています。

そう見ると、ワタナベとレイコさんが寝るのは必然です。また後述。


〈で、それが?〉

一つに、先述したように各登場人物たちを位置づけることができます。
あくまでも、「ワタナベから見て」という括弧付きですけどね。
また、ワタナベからは見えないけれど、読者である我々から見て。

簡易的かつ雑ですが。
私の描いた相関図。


永沢さん→生と個
ハツミさん→生と全(たぶん)
レイコさん→死と個
緑のお父さん→死と全

キズキ、突撃隊、直子のお姉さん→端的な死

先述しなかった人物として、ハツミさんがいます。彼女は位置づけしづらい。非常に難しい。
けど、次のような解釈もできるのではないでしょうか。

ハツミさんはいつも上品な服を着ていて、きちんとお化粧をして、マナーが良くて、ユーモアに溢れたお姉さん。
好きな人に抱かれて、彼の子供を産んで、
「私が求めているものってそんなものなのよ」
って言う。
非常に社会的じゃないですか。全体的じゃないですか。
永沢さんが「単なる」と評する、「労働」っぽいじゃないですか。
そして明確な理由も明かされないまま、自殺してしまったことが淡々と述べられる。
社会からドロップし、ラフな格好とラフな髪型で、終盤活き活きとしはじめていくレイコさんと、実は対照的に描かれている。
と思うんですよね。

もう一つに、本書におけるセックスが何たるかが解釈可能です。
筆者は女性なので、男の人の生理に関してはまったく想像するしかないのですが、
少なくとも『ノルウェイの森』に描かれる性的な欲情は、自己の不完全さを埋めようという志向性と解することができます。
「生と死」「個と全体」の座標上で中心に向かうとき、すれ違い、交差する相手です。

死に引っ張られていれば生に属する相手を欲し、
(直子がワタナベを求めたように)
全体に傾いていれば個に傾いている相手を欲して、
(ワタナベとレイコさんがどちらからともなく寝たように)
自己の不完全さを埋め合うのが本書における性交と取ることができます。
まぁこれは、古今東西普遍的に通じる性愛の解釈と思いますけどね。

だから、もはや「少女の肉を削ぎ落とされ」た、「完全な肉体」の直子に、ワタナベが欲情することはないのです。
そして直子が濡れることもない。完全だからです。

レイコさんを爆発させた少女も皆さん気になるところかもしれないけれど、
彼女は別に、キャラクターとして魅力的だけど、特筆すべきことなんかなんにもない。
レイコさんが語った通りだと思います。
病的な嘘つきで、レイコさんを食い物にした純粋な邪悪。

〈感想〉

正直、「なんてエロい小説なんだ…」
っていう感想に尽きていい小説だと思うんですよね。
だってそれはエロの本質を一部掴んでるということ。めちゃくちゃ褒め言葉。

そして「エロい」って実は描くのめちゃくちゃ難しいと個人的には思う。
その理由はこれまで述べてきたようなことが込みだから。
色々な概念的な「極」の交差だから。
「エロい」ってどういうこと?みたいなことについてはまた別の機会に書こうかな。

まぁだから私の率直な感想。
「ノルウェイの森はどんなポルノよりエロい。」

長いのに最後まで読んでくれてありがとうございました。