『天気の子』、セカイ系を終わらせたかもしれない

以下の作品のネタバレを含みます。
『天気の子』、『新世紀エヴァンゲリオン』、『イリヤの空、UFOの夏』、『雲のむこう、約束の場所』

『天気の子』観た?

割とおもしろかったよな! 不覚にも劇伴のRADWINPSに心を揺さぶられちゃって悔しかったりしたよね?
まだ観てない人はこの記事は読まずに映画館にGO!
『天気の子』おもしろくて、語りたい!と勢いで書いて図も付けたら縦に長~くなってしまいました。
遅れてきたエヴァ世代だと自分で思っている私は、セカイ系についてずっとモヤモヤを抱えていて、
そのぶん『天気の子』でほんとに痛快な思いをしたので、そのことを書きました。
天気の子は、まごうことなきセカイ系のフォーマットでありながら、セカイ系が曖昧にしてきた問題、曖昧にすることで類型として存続してきた問題を解明してしまったんじゃないか。
そのことによって、セカイ系が、ついに、とうとう、終わったんじゃないか。
そう思ったんです。

セカイ系を図式化する

90年代中頃から2000年代にかけて、似たような物語構造をもつ作品が次々と作られてヒットしました。
私は『新世紀エヴァンゲリオン』『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』そして新海監督の『雲のむこう、約束の場所』を代表的な作品として考えてます。
時代柄、麻枝准作品をはじめとして、PC向けエロゲー、ノベルゲーにもやまほどセカイ系があり、むしろ主戦場かもですが、ここでは触れられませんでした。
誰がいつセカイ系と呼び出したか知らないのですが、たぶん初出はたどれるでしょう。
初出から定義から論争史までたどれるんだろうけど、ここでは自己流で図式化して定義します。
すなわち、セカイ系を4つの項の相互関係として図式化します。
4つの項は、脅威、セカイ、少女、少年です。

①脅威

「脅威」がやってくることで物語がはじまります。ですから第一項は「脅威」です。

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たいてい、脅威の正体ははっきりせず、作品の最後までじゅうぶんに解説されません。
そのため、読者は「脅威」を暗喩(メタファー)として受け取ることになります。
「脅威」は何の暗喩か。
これが「セカイ系とは何か」という問いの中心であり、しかし多くのセカイ系作品にはこの問いに答えを出すためのディテールが欠けていたと思います。
「脅威」は人類には対処する方法がないほど強力な存在です。

②セカイ

「脅威」がやってくるところの対象として「セカイ」は定立されます。すなわち第二項です。

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強力な脅威がやってきて滅ぼそうとするところのものこそ脅かされている「セカイ」です。
セカイが第一項でないのは、セカイが既知でも自明でもないからです。
脅威はたしかに未知ですが、その対称物であるセカイが既知というわけではありません。
「世界」は私たち誰にとっても自明なものとは言えませんが、セカイ系作品の主人公は「子ども」だからなおさらです。
子どもにとっては脅威もセカイもひとしく未知なものです。
ですが、セカイ(というかセカイの代理者として登場する人物、「父」)は子どもに対して「脅威こそ未知である」「脅威は敵である」と宣言します。
子どもはセカイの宣告をひとまず受け入れざるを得ず、脅威が「敵」として再定立され、ここでセカイと脅威=敵の非対称性がなりたつのだと思います。

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それにしても、なぜカタカナで「セカイ」なのでしょうか。
「セカイ」というカナ表現が使われていればセカイ系、というわけではないはずです。
だから、ある時代に流行した一連の作品群において、世界が「セカイ」としてある一定の捉え方をされている、という共通点を見出すことが「セカイ系」という名付けの根拠になっているのでしょうね。
およそ一般名詞で「世界」と言うときも、その言葉が何を指すのかは、話者の世界の捉え方に左右されるでしょう。
世界は、古典経済学を信じる人には「市場」だし、マルクス主義を信じる人には「階級闘争の舞台」だし、
ムスリムにとっては「ウンマがひろがっていく過程」だし、環境保護活動家にとっては「傷つきやすい恒常性」でしょう。
ではセカイ系の作品は、どんな世界の捉え方を共通の前提にして生み出され続けてきたのか?
これも「セカイ系とは何か?」の問いに含まれていいと思います。

③少女

「脅威」と「セカイ」の非対称性を前提として、第三項として「少女」が登場します。

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少女は、他の手段では倒すことのできない脅威と戦い、倒します。
そしてそのためには、少女も死なねばならない、あるいは死ぬほどの危険を冒し続けなければいけない。
脅威は、直接に少女を襲ってくる訳ではないので、少女の戦いは自己保存のためではなく、自己犠牲=イケニエです。
その犠牲を少女に求めるのはセカイであり、脅威もろとも討ち死にすれば少女はセカイを救うことになります。

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「少女」は「脅威」を倒そうとし、「脅威」は「セカイ」を滅ぼそうとし、「セカイ」は「少女」に犠牲を要求する。
三項は「三すくみ」になっているように見えます。
ただし完全な三すくみではありません。
なぜなら、脅威は問答無用で(まさに「必然的に」)セカイを滅ぼそうとするのに対して、少女には脅威と戦う理由がないからです。
少女はセカイに強制されて戦うわけで、そのため葛藤が生じ、ドラマになります。
「セカイ」と「脅威」ののっぴきならない敵対関係がまず一次的、根本的、必然的な関係としてあり、
セカイと少女、少女と脅威の敵対性はそこから派生してくる二次的、恣意的、偶然的な関係である。このことを確認しておくことが大事な気がします。

よく「セカイ系」の説明として、「世界と自己のあいだの中間項を削除して、世界を「セカイとキミとボク」に還元してしまう」という説明がされることがあります。
これは「少女には脅威と戦う理由がない」ということに関わりがあります。
世界と自己の中間項、すなわち国家とか、民族とか、地域共同体とか、家族とか…そんなものがあれば、それらを「脅威」から守るために戦うでしょ、ということですね。
戦いの物語というものは、そっちが普通でしょ、と。
ところがセカイ系では、自己を犠牲にして守るべき中間項が描かれない。なので脅威と戦う理由がありえない。理由がないのにセカイから戦いを強いられる。そうして極限状況のもとでセカイと自己(自己保存の原理)が敵対することになる。それがセカイ系。そういう説明です。

まあ、しかし、この説明ではよくわからないわけですね。
セカイと少女に中間項がないといっても、第二項のセカイと第三項の少女は第一項である脅威に媒介されて関係しているだけだから、それ以外の中間項がないのは当たり前です。
そもそも、「脅威」が中間項をすっ飛ばして「セカイ」を直接脅かしはじめるということが物語の始点なので、問題にするなら「脅威とセカイの中間項のなさ」を問題にしないとならないです。
「セカイ」と「脅威」の敵対関係は何を意味しているのか。
セカイはどのような世界として捉えられていて、それを脅かす脅威は何の暗喩なのか。
その疑問に戻ってくるわけですが、多くのセカイ系作品ではいかんせん「脅威」のディテールが甘すぎて解釈が確定できません。
なので、脅威の正体という核心をわきに置いてドラマの現象面だけをとらえると、「セカイと自己の中間項の削除」という説明しかできません。セカイ系というジャンルの自己再生産にとってはそれで十分だったのかもしれません。

④少年

このような三項関係をなす脅威、セカイ、少女に対して、特殊な第四項として「少年」を導入します。

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なぜ特殊かというと、少年こそ作品の主人公であり、傍観者として三すくみを観察する語りの視点であるだけでなく、三すくみに介入しうる能動的な主体として設定されるからです。
ドラマの途中をすっとばせば、少年は、彼じしん脅威に怯えながら、セカイと少女の二者択一を迫られることになります。
セカイを選ぶなら、セカイのために自己を犠牲にする少女を見送るしかない。
大切に思う少女を選ぶなら、少年は少女を三すくみの外に連れ出さねばならない。
ここにもうひとつの三項関係を指摘できます。

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少年は葛藤します。この葛藤がセカイ系作品の最大のモチーフであると言ってよいでしょう。

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『イリヤの空、UFOの夏』では、浅羽はイリヤを選び、セカイから逃走しようとするが失敗し、セカイに連れ戻され、自分の無力さを噛み締めながらイリヤの死を見送り、大人になっていく。

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『エヴァンゲリオン』では、シンジはセカイと綾波レイのどちらも選び切ることができず、えんえんと葛藤し続ける。

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『雲のむこう、約束の場所』では、浩紀は佐由理と宇宙の両方を救うためにみずから「塔」を爆破し、二者択一のジレンマを廃棄するが、そのことによって浩紀と佐由理の大切な結びつきが損なわれてしまう。「脅威」こそは他の三項を媒介する第一項だからです。

セカイ系は少年と少女のロマンチック・ラブを前提にしているので、読者は少年が勇気と決断力を発揮して少女を苦境から救い出す(そして王子様とお姫様は幸せに暮らしました…)ことを無意識に期待するのですが、セカイの苛酷さと少年の非力さがあいまって、そうしたハッピーエンドにたどり着けません。
読者のロマンチックな期待は宙吊りにされる、あるいは粉砕される。その苦痛。
その「痛さ」からある種の快感を得る、というのがセカイ系の消費のされ方だったのじゃないかと思います。
そうやって消費しているかぎり、セカイと少年少女の敵対性だけ舞台装置としてあればいいのだから、脅威とセカイの正体という謎は解き明かされなくていい。
むしろ脅威の正体については曖昧であるほど、少年の葛藤の方が前景化しやすくなります。
脅威ーセカイー少女の三項関係の暗喩を解き明かすより、セカイー少女ー少年の三項関係の泥沼を執拗に描く方が、読者は快感で満たされるわけです。

それ、不健全だし怠惰じゃないですか。現実の時代の暗さに浸って物語を消費してるだけみたいだし。
私はセカイ系といわれる作品にすごく大きな影響を受けてきました。
でも今はそれらを高く評価することはむずかしい。
『天気の子』が描かれてしまったあとではなおさら。

『天気の子』での、セカイの解明

ここまでの図式を『天気の子』に適用すると、次のようになるでしょう。

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そして、「脅威」(作中では「雨」)が何の暗喩かということを、確実に特定できるだけのディテールを『天気の子』は備えていると思います。
様々な描写から、「雨」が意味するものは「不況(経済成長の停止)」としか考えられません。

脅威 = 不況

そして、「セカイ」(作中では「晴れ渡る夏」)はまさに「経済成長(資本の自己増殖)」と結びついています。

セカイ = 経済成長

とすると、「少女」(陽菜)は「不況のもとで、自分の生活を犠牲にして資本の増殖に仕えることを強いられる立場の人々」を意味していることになるでしょう。

少女 = 不況下でも経済成長に仕えさせられる人々

よって、脅威ーセカイー少女の三項関係は、次のように解き明かされます。

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この三項関係は、新自由主義(ネオリベラリズム)時代における、資本による人々への収奪をもっとも簡略に図式化したものにほかなりません。

では第四項の少年(帆高)は現実では何に相当するでしょうか。
第四項は特殊な項、物語の視点であり、能動的に状況に介入する(ことを期待される)主体なのでした。
これはつまり、観客である私たちのことでなければなんでしょうか。
そして、私たち観客というのは「資本に仕える人々」のことでなければなんでしょうか。
つまり、第四項は第三項とおなじく、私たちのことです。
この図式の中で、次のような自己の二重化がおこなわれると考えればよさそうです。
成長しようとする経済、増殖しようとする資本(第二項)は、自己(第四項)に対して、自己の中のある部分(第三項)を犠牲にして、不況(第一項)を耐えしのび、自分たちに奉仕せよ、と命じる
自己の中のある部分とは、生きがいとか、創造性とか、自由な時間とか、ぜい沢とか、自分の生き方を自分で決めることとか、そういうものでしょうね。
一言でいうとなんだろう、「人生の豊かさ」かな。

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経済を支えるために人生の豊かさを捨てるか、自分の人生を肯定するために経済を見限るか。二者択一を迫られて、自己は葛藤します。非力な自分が苦しくなります。
これはほんとに、セカイ系が流行りだした頃から私たちがずっと置かれている状況を言い当てていませんか。
けれども、こうして正体を解明してみれば、少年がセカイに対してどう立ち向かうべきなのかは、おのずと明らかになります。

晴れわたる夏(終わらない経済成長)のために、陽菜さん(人生の豊かさ)を手放すことはしない。
晴れの夏を諦めれば、雨(経済成長の停止)とともに生きていくことになるけれど、それは楽なことじゃないけど、でもぼくたちは大丈夫だ。
それを選んで、セカイを変えよう。

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セカイ系は終わった

このように『天気の子』から解放的なメッセージを受けとりながら、私が「セカイ系の系譜はこれで終わったのでは?」と考える理由は、2つあります。

1つ目は、セカイ系が曖昧にしてきた「脅威」と「セカイ」の正体が、『天気の子』によって明確に指摘されてしまったこと。「脅威」は経済成長が停止したことの暗喩であり、「セカイ」とはそれでもなお若者や地方を犠牲にして経済成長を続けようとする東京なのだ、ということをこれほど明確に描いた作品は、私の知るかぎりでは、大樹連司のあまり知られているとはいえない佳作『勇者と探偵のゲーム』(一迅社文庫、2009年)しかありませんでした。

2つ目は、セカイは持続しないことが示されたことです。2009年にセカイ系の伝統的仕掛けをたくみに操ってセカイの姿をくっきり捉えた大樹連司は、セカイを脱出口の無い迷路、地獄として提示するほかありませんでした。その十年後、新海監督はこの作品で東京を水没させ、セカイは永続できないことを明瞭に示しました。「若者を犠牲にして成り立つ見せかけの経済成長は持続不可能である」ということをはっきりさせたのです。

セカイは持続しません。私たちは望むと望まざるとセカイが終わったあとの世界を生きていかなければならないし、経済成長に変わる物語をみつけて「脅威」を馴致していかなければなりません。それはもちろん「終末」やポスト・ヒストリーではありません。むしろ、そのとき歴史はふたたび進みはじめるのです。私たちは大丈夫です。そして、新しいセカイ系はもう必要ありません。

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