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『走れメロス』を〈構造〉で読んでみよっか。(完)

https://note.com/textisneverdie/n/nfc459e3db13f

しかしメロスはある瞬間から、王の論理に自ら組み込まれる。メロスは「三日間の日限」を懇願する。この瞬間は、テクストにおけるその描写からも一目瞭然である。メロスは敬語を使い始めるのだ。この場面で、メロスは王国における「支配-被支配」という〈構造〉に自ら取り込まれたことがわかる。その行為は、王にとっては願ったり叶ったであった。王の論理に組み込まれたメロスの行動は、予測が可能であった。王はそこで「北叟笑んだ」。
ここでまた新たな登場人物が現れる。メロスの「竹馬の友」であるセリヌンティウスである。「市」に住むセリヌンティウスは、その「竹馬の友」という表現から、幼少期は「村」で生活していたことがわかる。セリヌンティウスは、メロスと「村」における論理、もしくはその〈構造〉を共有しているがために「無言で首肯」く。
王によって捕縛されたセリヌンティウスの命は、この時点でメロスの命と等価となる。
メロスが「市」の〈構造〉に取り込まれたことによる変化は、「単純」な男であったはずのメロスを、結婚式の開催に同意しない花婿を「説き伏せ」るという、王の「邪智」に準ずる、「単純」とは言い難い知的な行動からも察することができる。さらにいえば、「大切な用事があるのだ」といい、「亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ」といいながらも、その内容は「秘密」にすることもまた、知的な振る舞いだと言えるだろう。後に、そのような知的さが、王の「孤独」を招いたように、メロスにも「悪い夢」として降りかかることになる。
さて、ここで〈構造〉に注目していると、メロスは興味深いセリフを妹夫婦に向ける。「私がいなくても、もうおまえには優しい亭主がある」「私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう」。前述した通り、メロスはその〈構造〉におけるその位置を花婿に譲る予定ではあったものの、「全部あげよう」ということは、予定外のことであっただろう。これはつまり、その位置からの離脱だけではなく、その「村」における〈構造〉からの離脱でもあった。もはや自分の家ではないその家ではなく、羊小屋で眠る行為からも、もはや主人としての身分は、そこにはない。
ここでメロスが走る理由に、従来指摘され続けた「もっと恐ろしく大きいもの」による引力だけではなく、「村」という〈構造〉から弾き出された斥力もまた働いていることがわかる。だからこそ「村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を追い出すような事はしないだろう。」というメロスの予測が「悪い夢」として成立するのだ。もはや譲ってしまったその位置にあることはできず、また「村」の倫理の上でも「地上で最も不名誉な人種」と成り果てたメロスには「市」にも「村」にも、もはや留まる位置がない。
「村」と「市」の狭間で、メロスはもはや意味を特定することができない。かろうじて、「市」の論理の上で、死ぬことが約束された、等価であるセリヌンティウスの身代わりである。
なんの〈構造〉にも属さないメロスは、自己完結せざるを得ない。走るメロスの思索は、常にメロス-メロスという一対一の対話だ。もしくは、ゼウスというメロスの倫理観における一つの象徴だ。もはやどの〈構造〉にも属さないメロスは「路行く人を押しのけ、跳ねとばし、(省略)野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駆け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし」走りゆく。メロスという(自己完結した、他の〈構造〉からすれば、はた迷惑な)カオスが走り抜ける。その様子は、セリヌンティウスの弟子フィロストラトスが形容したように「気が狂った」ように見えることは必然である。そしてメロスもそれに半ば自覚的であり「風体なんかは、どうでもいい」と述べる。そしてそのメロスは、「市」への引力と、「村」からの斥力をもってして、「市」へと「突入」する。
ここで一つ確認しておきたいのは、メロスと王の関係である。「孤独」に侵された王も、「悪い夢」を見たメロスも、まさしく相似の〈構造〉にあることがわかるだろう。家庭の中で同じ位置にいた二人、自己完結に陥った二人、ただ、その結果だけが異なった。


メロスというカオスの突撃は、「市」の〈構造〉を破壊することになる。かと思いきや、実はそう簡単ではない。メロスに許しを与えた王は、むしろ「王様、王様万歳」という群衆の歓声によって、その位置はより強固となる。さらに言えば、「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆にみられるのが、たまらなく悔しいのだ」というセリヌンティウスの言葉は、メロスが「市」の〈構造〉の中で、空白のままであった「母(妻)」の位置への「娘」の補充、そして、家庭という〈構造〉の再生産を予期させるだけでなく、メロスが赤面したこともまた、「市」の倫理観に再度組み込まれたことによる身体的な信号だと考えることができる。
ここで、メロスと王は、むしろ、結果的に、〈構造〉の維持という目的を共にする共犯関係であったことがわかる。メロスは「村」で妹夫婦を結婚させ、また自分は「市」の中でその〈構造〉を維持し、また王は「市」での〈構造〉におけるその位置を守ったことになった。
このような対比はまた、悪政が蔓延っていた「市」での国民の沈黙、メロスを迎えたあとでの付和雷同の王への称賛、そして沈黙する羊と、会話文としては一切登場しない妹夫婦という被支配者の相似もまた、構造の維持に与することになる。


まとめよう。物語は国語の授業やテストにおいて「登場人物の変化」を主眼に置くことが多いが、この〈構造〉に注目してみると、むしろ「不変」であることがわかる。

変化はむしろ目につきやすい。しかし不変のものというのは、日常の中では普遍のものとして、目の前には現れてこない。そのような不変/普遍にみえるものを炙りだすために有用な手段の一つとして〈構造〉を今回は扱ってみました。途中から敬体が常体への口調が変わりましたが、一つの愛嬌として笑ってやってください。すこし言葉足らずでしたが、以後また完全版を用意したいと思います。

今回は、触れずにはいられないはずの「もっと恐ろしく大きいもの」を始め、メロスを走らせる「引力」には、ほとんど触れずに読んでみました。ここで暴きたかったのは「斥力」とメロスと王の共犯関係です。少しズラすだけで、従来の読みとは違う発見があるのが、文学理論のおもしろいところだと思います。

また次回も、なにかしらの文学理論を「走れメロス」に適応して読んでみたいと思います。ご覧いただき、ありがとうございました。


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