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「視覚」と「運動」の関わりは新生児期を土台としている

少し前に『眼の誕生 ーカンブリア紀大進化の謎を解く』という本を読んだ。眼と言えば感覚器官の代表格で、わたしたちの社会の大部分は視覚を持ち合わせていることを前提に作られていると言っても過言ではない。

むかし病棟に勤務していた頃に、視覚を失った患者さんに出会った。糖尿病で50代で視力を失ったその患者さんは、世界を、文字通り「手探り」で確認していた。

その患者さんが病棟内で生活できるように工夫しようと、ベッドから部屋の入り口にあるトイレまでビニールテープをわたしてトイレに行けるようにしたり、その道中に障害物がないように調整したり、センサーマットを置いて他者からその人の活動がある程度把握できるようにするなど、自分なりに考えて環境を設定した。
(当時勤務していた病院は、入院患者のほぼ全てにリハビリ部門の「様子見」が入り、看護師と相談してベッド周囲の環境設定をし、リハビリが必要な患者だった場合にその必要性を医師に進言できる病院だった。もう10年以上前の話だが、かなり先進的だし現在に至ってもそのような病院は少ないと思う。)

見える、ということは、周囲を把握できる、ということとイコールに近い。
つまり、見えない、ということは、周囲の状況がわからない、ということなのだということを、患者さんを通して知った気がする。
当時はすでに理学療法士だったから、そういったことを学問的には理解していたのだが、それが一体どういう問題を引き起こすのか、ということがよくわかっていなかったのだと思う。

試しに目を閉じてトイレまで歩いてほしい。それがどれだけ難しいことか。


学問的には、視覚というのは数ある感覚器官のひとつだ。それは前述の本の題名にもあるように、カンブリア紀の生物の進化の中で生命が獲得した「触る」以外の方法で対象物を把握するという超画期的手段だ。

それまで生き物は、何かを認識するときに、触れることでしか認識できなかった。
普通、触れるときには目的物がある、と感じるのは感覚器官が発達しているから言えることであって、もし感覚器官がなければ「触れる」は常に「偶然」でしかない。

「動く」→「触れる」→「反応する」の一方通行というわけだ。

眼ができたことによって、この一方通行が激変した。

「見る」→「向かう」→「触れる」→「変化が起きる」→「変化を見てとる」という、高度な応答ができるようになった。もちろん変化を見てとった後には再び向かうことも向かわないこともできる。そこに、判断が生まれたことになる。そして視覚以外の感覚も、ここから劇的に進化していく。


このように視覚はわたしたちの生き物としてのスタンスを全面的に再構築した記念碑的身体機能だ。現在では乳児の頃からこの視力をもって世界を認識していることがわかっている。
では、この、視力、とはなんだろうか。


わたしたちが物を「見る」ために必要な機能の大前提として、網膜像を、中心窩(ちゅうしんか)と呼ばれる「見る機能」の感度の高い部分に一致させる、ということがある。そうしないとよく見えないのだ。

そして、その「中心窩と網膜像を一致させる」ために、わたしたちの眼球は運動する。その運動は、大きく分けて6つある(カンデル神経科学 第5版 p.880)。

・ 新たな対象物に対して素早く中心窩を移動させる
・ 動く対象物の像を中心窩の上に保持する
・ 網膜像が両目の中心窩上にくるように、両目を反対方向に動かす
・ 頭部が少し動いた際に、網膜像を静止させる
・ 頭部の持続的回転や平行運動の際に網膜像を静止させる
・ 頭部が動いていない状態で対象物を見る際に、眼が動かないようにする


6つをじっくり読んでみると、眼球運動ではない運動の話も出てきていることに気がつくだろう。

ひとつは、頭部の動きだ。眼球は言わずもがな頭部の中に仕組まれた機構であるので、目の動きには頭の動きが必ず関係してくる。

そしてもうひとつ、対象物の動きも考慮されなければならない。自分の目や頭だけでなく、周囲の「みるべき対象物」も動く可能性があるわけだ。当然だ。

眼と、それを含んでいる頭部と、外部の対象物が、それぞれ動く状況に、人は常に対応している。その対応力のことを「視力」という。単に「見える・見えない」ではないのだ。


生まれてから最初に乳児が随意的に動かすようになるのは眼球だ。
それから、頭部を動かせるようになる。
そのあとで、身体を意思に沿って動かせるようになる。

つまり、眼球の動きありきで、頭部を動かすようになり、頭部の動きありきで身体を動かすようになる。

眼球がきちんと動かなければ頭部の動きの基礎が固まらず、頭部の動きが成立しなければ姿勢も運動もきちんと出来なくなるだろうことは容易に想像がつくだろう。

頭部を動かすためには頭部の重さをコントロールするための組織的・神経ネットワーク的な成熟が必要になるが、それにはだいたい生後3−4ヶ月かかる。「首がすわる」というのは、乳児が自由自在に頭部をコントロールできる、ということだ。

だからそれまでは、頭の位置を安定させて、その上で眼球を動かすことを乳児は練習していなければならない。
頭部がグラグラしていたり、あるいは固定されているものの眼球を動かす必要がなかったり、そういう状況では困るのだ。

見たいと思うもの、興味を惹かれるもの、そういったものがまだ動かせない頭部の中で動く眼球の視野に入ってきて、できれば音や触覚や匂いやゆりかご的な揺れなどの「他の感覚」とともに、ゆったり乳児を刺激するような、そんな状況が理想ではないだろうか。
脳は可塑性を有しているし、身体はもっと変化に富んでいるので、そうせずに過ごしたからといって取り戻せないわけではないのだけれど。
そしてもちろん視覚が何らかの理由で障害されていたからといって、それを補う他の感覚がたくさんあるのだけれど。


・・・そういえば昔から子どもをあやすときには、首を支えて目が合うように抱き上げ、穏やかに揺らし、なにか歌を口ずさんで、時に手足をさすったりする。
そして子どもの視線も本能的に、それをする人間の眼を追うようにできている。
人の身体はすごい。
人の歴史もすごい。