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慰安婦 戦記1000冊の証言41 臨時看護婦

 インドネシア・スマトラ島の中部、「軽井沢」とも称された、高原の街ブキチンギ(ブキティンギ)にも、もちろん、慰安所があった。
 近衛歩兵第四連隊兵士の証言。

 昭和17年、「フォルトデコック(現地名ブキチンギ)で、私は、海外の軍隊には『ピー屋』と呼ぶ慰安所(倶楽部とも呼ばれていた)のあることを初めて知った」「スマトラへ来るマラッカ海峡の輸送船の中で、先輩、戦友たちにその話を聞いたという方が本当かもしれない」
「ある日曜外出の時、私はその道のベテラン戦友に誘われて、このピー屋の館へ初めて足を入れた」
「オランダ人の住宅と思われる数軒を1区画とした所で、道路に面した方の境を板塀で囲い、原住民には外からは中が見えないようにしてある。その囲いを一歩入ると、日本女性が数十人、脂粉を漂わせ、ベランダや日陰の芝生に腰を下ろし、兵隊達と談笑していた」
「これらの女性達は浴衣を着ているか、ワンピース姿である。派手な色柄のものを着て、タバコを吸っている人も多い」
「経験のある兵隊で、馴染みのいる者は入るとすぐ大きな声で彼女を呼ぶ。新しい相手と交渉する者は、目星をつけた女性に積極的に交渉する。話がまとまると、さっさと部屋へ楽しそうに消えていく」(1)

 このような慰安所で、慰安婦と接したかどうか不明だが、別の兵士の証言。
「私たちが駐留していたスマトラでも、たしかにブキチンギに慰安所があった。日本人女性10人ほどと韓国女性10人ほどがいた。恥をしのんでいえば、私も一度だけ韓国女性を買ったことがある。
 その女性がたどたどしい日本語で語ったところでは、『軍人相手の売店の売り子と聞かされてやって来たが、こんな仕事だった。いまはもうあきらめているし、お金になればいい』ということだった。
 当時、いわゆる女衒と呼ばれるその道の商売人にだまされたのだろう」(2)

 昭和19年2月、ブキチンギに駐屯する第25司令部に配属された見習士官の証言もある。
「日夕点呼では『日々命令』というのと『会報』というものが伝達された。週番下士官かあるいは班長が画板のようなものにはさんだ紙を読み上げる」「『会報』というのは、命令を改まって出すというほどでもない、いわば『お知らせ』である」
「毎週土曜日には、“慰安婦”たちの健康状況についても、『会報』で知らされる」「『大和屋!』などと、娼家の名が呼ばれ、『花奴、センケイ・コンジローム』などという具合であった」
「将校慰安所をかねた日本料理屋に行くと、畳敷きの部屋があって、日本髪の“芸妓”が出てくる。その若い妓からレコードを借りてきて、小唄の練習をするのが、流行した」
「マージャンもまた大いに流行した。酒を呑みに出ない夜は、もっぱらこれである。『なあ、おい、将来日本に帰っても、黙っていようぜ。家の連中は、何しろ瘴癘酷熱のジャングルか何かで、汗びっしょりで苦労していると思っているんだろうからなあ』。パイをすてながら、そう言った」
「将校用の慰安所兼料理屋には、『治作』という店と『立花』という店と2軒あった。『治作』というのは、もちろん、築地の店の名をとったものだろう。
 ここには、日本髪のかつらをつけ、長い裾を引いた妓たちがいた。三味線の達者な老妓(といっても、まだ40にはならなかったろうが)もいて、若い連中は踊ったりする。
 ところで、ここには、司令部の将校だけが出入りするわけではない。ブキチンギ周辺の町にも、いくつかの部隊が駐屯しているし、さらに、軍政部の高等官の軍属、商社や銀行、新聞社の特派員など、いわゆる民間人も来る。
 圧倒的に女性が不足なのであった。たいていの妓たちが、部隊の違う将校を2人ぐらい、それに軍政官のお役人、商社の民間人と、4、5人の愛人を持っている。われわれ少尉などは問題外の外みたいなものであった」(3)

「ブキチンギには将校用、下士官用にたくさんのP屋があり、インドネシア、支那人、インド人のたくさんの女が居た。その他に『ジャランプロンパン』と称する密淫が多かった。ジャランは歩く、プロンパンは女の事で、日本流の『夜たか』『辻君』である」
「(この密淫狩りをやったところ)高級将校、同相当官の官舎のバブ(女中)の中にこのジャランプロンパンをやって居る者が多く、取調べて見ると、みなそのトワン(旦那)と関係がある事が分か(った)」(4)

 昭和19年中ごろ、スマトラ憲兵隊ブキチンギ憲兵分隊長の証言である。
 とても戦争下とは思えない日々を過ごしていたのだが、敗戦とともに、慰安婦を含め、女性の処遇が激変する。

「在留邦人の婦人は、すべて陸軍病院の『看護婦』にされる事になった。上層部が発案し強行したという事だった。英印軍が入って来ても、病院看護婦としてあれば、まさかひどい事はしないだろうというのである。
 日本軍がこれまで、中国はじめ各地でやって来たような事を、かれらも必ずするに違いないと確信しているわけであった」
 この臨時看護婦になる「婦人たちもいろいろだった。まず、治作や立花の妓たち、商社員として来ている人、偕行社(ホテル)のウエイトレス、軍政部の軍属の資格では、インドネシア人女学校の女教員もいた」(3)

 ところで、「臨時看護婦は上層部の発案」というのだが、その「発案」話が、次のように伝わっている。
 ベテラン看護婦・四ケ所ヨシは、昭和17年5月以来、ジャワ派遣第16軍所属の1602部隊四ケ所隊(従軍看護婦とタイピストの編成)隊長(監督兼婦長)として、ジャカルタ病院に勤務していた。
 昭和20年5月のある夜のこと。「ヨシは軍政監部総務部長の××少将の官舎に呼ばれる」「部屋に入ると」「(××は)静かな調子で語り始めた。
『四ケ所さん、現在ジャワにいるすべての日本女性を無事に故国へ帰したいんです』。ヨシははっと胸を突かれる。
『いったい、女性は何歳くらいまで子供が産めますか』
『そう、まあ45歳までは可能でしょう』
『今ジャワで働いている女性たちは皆若い。ぜひその人たちに、日本へ戻ってこれからの日本国民を産み育ててほしいんです。自分たちは軍人ですから、死に臨んでの覚悟はもとよりできています。
 しかし、女性たちは一人残らず生きて日本へ帰ってもらいたい、その全権をあなたに託したいのだ』」
「商社のタイピストや学校教員、商店やデパートの店員、薬剤師その他数百名を越す女性たちを、いかに安全に母国へ連れ帰るか。そのときヨシの胸中に、英国のクイーンを会長に頂く万国赤十字社の規定が思い浮かんだ。
『閣下、全員を大急ぎで看護婦に養成しましょう。規約の2条に“看護に当たる人員、資材、施設は中立として保護すること”とあるのですから』
『よし、それでいこう。あなたに任せる』。
 ヨシは我が身に託された責務をずしりと抱えて、自分の宿舎に戻った。その後、軍政監令が出て、ジャカルタの日本女性に看護教育を行うことになる」
「ちょうど一か月間で、すべての教育を完了した。7月22日、軍医部から看護婦の免状が授与され、四ケ所隊の看護婦は総勢560名の大所帯となる」「この女性たちが、後にポツダム看護婦と呼ばれる」(5)

 この「ポツダム看護婦」の仕事ぶりを目にした軍属の証言。
「ここ(ジャワ・パラカンサラックの抑留所)で、21年早々パラチブスにかかって、チロハニの陸軍病院に入院した。これは軍が急造した病院で、病室はニッパ椰子葺きの掘立て式であった。
 大部分の看護婦はかつての慰安婦の俄か看護婦であったが、皆甲斐甲斐しく働いていた」(6)

 ジャワ島の第16軍にならって、西隣、スマトラ島の第25軍も「臨時看護婦」を急遽養成したのだろうか。

《引用資料》1,土金冨之助「シンガポールへの道・下」創芸社・1977年。2,軍人恩給連盟浮羽郡支部「後に続く真の日本人へ―大東亜戦争の想い出」明窓出版・2001年。3,戸谷泰一「消燈ラッパと兵隊」KKベストセラーズ・1976年。4,河野誠「赤道直下の血涙」心交社・1987年。5,木村園江「花と星と海と―四ケ所ヨシの歳月」芙蓉会・1996年。6,「ジャワ電気回想録」私家版・1959年。

(2022年1月7日更新)


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