慰安婦 戦記1000冊の証言21 トラック・パイン
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慰安婦 戦記1000冊の証言21 トラック・パイン

東 京一郎

 高松宮は、昭和16年11月、海軍軍令部員兼大本営海軍参謀になる。翌17年1月16日の日記に、こう書く。
「第四艦隊は自分の場所で補給休養をやり度、其の様に施設され度。慰安200名送ること」(1)
 日本の委任統治領である南洋のトラック島を、第四艦隊などの海軍の大基地とするので、慰安婦を200人、送り込むという意味だろうか。
 昭和17年6月、佐世保を出港し、トラック環礁(島)の夏島に到着した第五特別陸戦隊員の証言。
「この島に、南月寮、南星寮という海軍の慰安所があり、士官用には別に専用の料理屋がある。
 これがもうすでに上陸してきた者たちの話題の種で、それをまた、尾にひれをつけて……うまく話しだすので、どこへ行っても船中はその話ばかりである。
 日頃うるさく厳しい古参兵も下士官もその話の時だけは、顔じゅうがとろける様になっている」(2)

 この陸戦隊員より前に夏島に上陸したらしい海軍第1通信隊員の証言もある。
「夏島には海軍特用倉庫があった。そこの井戸で黙って洗濯をし、水の尊いところだから、ひどく女達に怒られたことがある。
 特用倉庫の入口には高札があり、
『特用倉庫使用規程
1、下士官、兵の使用時間は午前9時より午後4時までとす。
2、1回の使用料 一金1円50銭』
などと書いてあったりした。特用倉庫員の女性達は、特用倉庫員と書いた腕章を巻き、その姿は町でよくみかけた」(3)
 特用倉庫とは、慰安所の海軍用語だ。

 やはり、昭和17年、夏島の慰安所設置初期のころの華やいだ気分を、第41警備隊病室勤務員が証言する。
「ある日“ぱっと”花が咲いたように、パラソルをかざした女達の一群が押しよせた。診察室に入りきれず、ベランダも通路も占領される人数である。看護長の説明では今回、内地から慰安婦が大挙してトラックにきたが、本日検査に呼んだ女達は、とりあえず士官接待婦として予定される者だが、ほかに下士官兵、軍属その他のための女達も順次、検査に来るという」
 一方で、病人も出る。「私が接した短い期間の中で、2名の慰安婦が内地に帰された。
 印象に残る一人は、胸を病む20歳前の小柄の女で、馴れない気候と無理がたたっての発病と思われたが、生れは神奈川の真鶴だという。
 多くの借金を残し、この身体でこれからどうなることかと他人ごとながら気にかかったが、明日、病院船に乗船するという日、彼女の病室に顔を出すと『お世話になりました』と、小箱が差し出されたが、本人はあとのないことを悟っていたのかもしれない」(4)

「士官接待婦」として検査された中に、横須賀市の老舗料亭、海軍御用達の「小松」の芸者もいたかもしれない。
「小松の女将は、開戦後間もなく、トラック島・夏島の第四艦隊司令長官の井上成美から、『小松の支店をトラック島に出してくれないか』との依頼をうけた。
『現在ある下士官用の「南華寮」だけでは間に合わない』というのがその理由だった」(5)
 古いなじみ客でもあった井上の申し出を受け、小松トラック支店(トラック・パイン)が開店したのは、昭和17年7月であった。

 女将の話によると、「最初は主人が行きました。女中や芸者衆を連れて行ったところが、なんにもできていないんです。地所が決められただけで、住む家もできていない。みんなアンぺラの上に寝る有様でした」
「そんなひどいところへ行って、家作りから始めて、畳から建具、蚊帳まで持って行きました。お部屋にかける額も何枚か、内地に戻った気分を少しでも味わっていただこうと、持ってまいりました」
「芸者衆は初め、横須賀から連れて行くつもりでしたが、(横須賀)鎮守府の方から、それでは横須賀が困るから、それはよしてくれと強く要望されましたので、横浜や東京から集めて、うちで一か月ほど仕込み、横須賀の踊りなどを覚えさせ、横須賀の芸者として仕立てて向こうにやりました」(6)
 
 最初二、三十人だった芸者も、後に数回に分けて送り込んだ。
 軍医学校卒業直後、トラック島に向かった軍医の証言。
「病院船天洋丸で、昭和18年4月下旬、横須賀から連合艦隊基地トラックへ向け、初めての大洋航海に胸ふくらませて出港した。
 戦線慰問団として、トラックの『小松』に赴任?する芸妓連中も便乗していて、航海中に演技を披露してくれた。着任後もトラックで彼女らと再会を重ね得た」(14)
 これらも含めて、芸者は最終的に五、六十人になったという。

「夏島には士官用のレス(レストラン)として、小松(通称パイン)と南華寮の2軒があるということだった。前者の方が格式が高く、後者の方がガンルーム(若い少尉・中尉ら)向きといわれ、ここではレスと言わずにパンパン屋と呼ばれていた」
「その南華寮へ行ってみようということになった」
「山を登って南華寮の門を敲いた。粗末な造りの部屋に案内され、エス(芸者)が2人入ってきた」「驚いたのはエスたちの無茶飲みである。酒やビールをガブガブ飲んでは、空瓶をドンドン窓から外へ放り投げてしまう」
「空瓶を割るのを楽しみに飲んでいるようなしぐさは、彼女たちの荒んだ気持を如実に現わしていた。
 彼女たちの中には、軍属として御国に奉公するのだと誘われて、純粋な気持で来た所が前線慰安所だったいう者も多かったと聞いた」
「その夜、若いエスの桃代に挑まれ続けたのであった。南国の陽光は明るく爽やかであったが、何か寂寞とした気分であった。彼女の部屋の壁に、『来年4月までは辛抱しよう』とつたない字で貼り紙がしてあったのを思い出した」
「彼女はその後どうしたであろうか。彼女らの多くはサイパンまで帰ってそこで玉砕したという」(7)
 18年2月、海軍主計中尉の証言。

 南華寮より格式の高い小松では、「連合艦隊司令部もときどき宴会を行なった、横須賀からトラックに進出していたレス小松(パイン)で、新艦長歓迎会があった」(8)
 阿川弘之は、自著で、小松に触れている。
「トラックには、横須賀の『小松』の出店があった。いわゆる『海軍レス』で、露骨に言えば慰安所であるが、もうすぐ60というのに、山本(五十六)は時々は通って行ったらしい」
 その上、「真偽のほどは不明だが」「山本を慰めるために、J(山本の愛人)を飛行機でトラックに連れて行こうかという話が、起ったことがあったという」。
「しかし、はた目をはばかるということもあったであろうし、結局此の、『J氏』のトラック行は、実現はしなかった」(9)
 とすると、海軍御用船・秋葉山丸の甲板員兼操舵手の次の話は、誤伝だったのだろう。
 昭和18年、「トラックから、総洋丸と二隻で帰国の途中」「総洋丸には一般の引揚者が便乗しており、その中には山本連合艦隊司令長官の妾親子が乗っているとのことで、2隻の船を2隻の駆逐艦が始めて護衛していた」(10)

 その山本も、昭和18年4月18日戦死し、戦局も厳しくなり、19年に入ると、米艦隊がトラック島に迫りつつあった。
 巡洋艦『那珂』の海軍少尉の証言。
 昭和19年2月16日、「私たち那珂乗組の兵学校71期の3名は」「『小松』のトラック支店で、クラス会を開いた」
「少尉に任官して間もない、新品少尉の料亭での宴会は、いまから思えば、酒のあるママゴトみたいなものであった。
 Sプレイ(芸者遊び)とはほど遠く、せいぜい16、7歳のハーフ(半玉)を一人か二人呼んで、童謡でも歌うといった他愛ないものである。それでも本人たちは、遊び人を気取っていたものである」(11)

 この翌日、米軍の空襲が始まるのだ。
「19年2月17日、18日のトラック島大空襲によって、店は滅茶苦茶にやられ、6人が爆死しました。もはやトラックには居れない、パラオに行けということで、みんなで死んだ6人のお骨を抱いてパラオに逃げました」(6)
 そのころ、ある海軍主計中佐は、小松とこんな別れ方をした。
「相当夜もふけた頃、誰かが使いにきて、『小松は今晩限りです。すぐに来て下さい』と言った」
「各庁勤務の女子職員(筆生)や小松のS、南華寮の女達、慰安所の女性など女達は皆内地に帰すことは知っていたので、そのためだとすぐ判った」
「極めて下司な言い方であるが『これで、この世でのしおさめか』と思って急いで行って目的を果たし、すぐに帰った」(12)
 小松の一行は、パラオに逃げたが、パラオもやられ、台湾廻りで三か月かかって、日本に帰った。(6)

 敗戦後、井上が横須賀の小松を訪れる。
「小松の一室に案内された井上は、敷居の外に座ったまま、女将に向かって頭を下げた。『申し訳ありません。今度の戦争では大変な御迷惑をおかけしたことを、日本海軍を代表しておわびいたします』」(13)

《引用資料》1,高松宮宣仁「高松宮日記第四巻」中央公論社・1996年。2,佐海航南「三等水兵たちの戦場」私家版・1995年。3,高畠喜次「悪夢のボーゲンビル―海軍第1通信隊員の手記」私家版・1967年。4,トラック島海軍戦友会「トラック島海軍戦記」私家版・1983年。5,浅田勁「海軍料亭小松物語」かなしん出版・1994年。6,外山三郎「錨とパイン―日本海軍側面史」静山社・1983年。7,守屋清「回想のラバウル航空隊」光人社・2002年。8,御園生一哉「軍医たちの戦場」図書出版社・1982年。9,阿川弘之「山本五十六」新潮社・1965年。10、全日本海員組合「海なお深くー太平洋戦争 船員の体験手記」全日本海員福祉センター・2004年。11、出口範樹「丸別冊第六号玉砕の島々(中部太平洋戦記)」潮書房・1987年。12、瀬間喬「わが青春の海軍生活ー素顔の帝国海軍・別巻」海友堂・1981年。13、井上成美伝記刊行会「井上成美」私家版・1982年。14、芳我孝一「淳誠会戦記」私家版・1979年。
(2021年10月18日まとめ)



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