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オンライン&オフライン哲学対話「私とは何か?」


2020年11月24日(土)
丸亀市飯山総合学習センター主催
ファシリテーター 杉原あやの
                             文:杉原あやの


オンラインと対面の合同哲学対話「私とは何か?」

 オンラインからの参加と対面での参加を組み合わせて哲学対話ができないか、実験的試みとして開催しました。会場側の参加者とオンラインの参加者とが、支障なく議論できるかどうかギリギリまで実験を重ね、直前になってようやく違和感なく議論をすることができるようになりました。


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 オンラインからの参加者5名、会場からの参加者5名で、一緒に哲学対話を行いました。
 箇条書きは、参加者の発言を示します。丸カッコは杉原が補足した文章です。当日のメモを参考に、参加者の表現をできるだけ忠実に書くよう努めました。小見出しは、この文面作成の際に、杉原が書き加えました。

 参加された皆さんの意見をご紹介したいと思います。

内と外

・私というものを創り上げるのは、外からやってきたものかな。関西圏にいれば、関西弁で話すし、関西弁でしか考えられない。今まで外から入力されてきたものから創られるのかな。

・外からやってくるのかな。私は私であって、私ではない・・・。自分の顔は鏡を見なければ分からなし、外からの反応を見ないと分からないこともある。でも、皮膚感覚は自分が感じているもの。・・・内側から外への発露というものがあるかな。

・関西弁と言われた発言から、「言葉」のことを考えると、「私とは何か」ということを私たちは言葉で考えているのではないかと思う。生まれたばかりの時には、私たちは言葉を知らなくて、(外部から)言葉を取り込むところから「私とは何か」という問いかけが生じてくるのだと思う。

言語と私

・赤ちゃんの時には、言葉はない。成長と共に言葉を覚えることによって可能性が狭まる。例えば、私は気が強い人間なのだとか、それはただの一面でしかないのに、それによって固定化されるのでは?「私」を玉ねぎの皮をむぐ様に、身に纏っている知識を取り去っていくと、「無」や「空」になるのでは?

・そんなに早い時期から「私とは何か」を考え始めなかったと思う。外のものを取り入れ始めて、「私とは何か」を考え始めるという「過程」があるのでは。

・では、言葉を持たないものは「私」は無いのだろうか?

・「私」という言葉の使い方によると思う。幼い子にも「このオモチャは私のだ」という「他」との区別はあるが、抽象的なものを考える様になってくる思春期前期ぐらいから「私」を自ら捉えようとし始めると思う。言葉より前に「私」は存在していたけれど、その時期に「私とは何か」を自分に問い始める。


メタ認知としての「私」

・その人間が存在しているという意味での「私」と、自分自身を自ら捉えようとする「私とは何か」の「私」、この2つの「私」は区別して考えたほうが良いかもしれない。

・その2つの「私」は、年齢が行くに従って、合一して行くのでは?

・生きている時に、善悪を決める基準がある。親の基準を丸呑みして生きる人もいるかもしれないが、自分で考えて自分の基準を持つ様になる。仮に親の善悪の道徳的基準と同じ基準を持つに至ったとしても、その過程で「私とは何か」を考え、そして、自分で考えた上で、親の道徳的な善悪の基準と一緒に至ることになることもある。(2つの「私」が合一するという意見に絡めた意見?)

・時々座禅をしにいくが、そのお寺の僧侶は、自分の子供には、座禅を教えないと言う。その理由は、子供達は、「私とはだれか」など考えることもなく、ある意味では、動物の様にその時を一生懸命に生きているからだと。一方、大人は、色々迷ったり、悩んだりし始めて「私とは何か」をメタ認知する。

いつ「私とは何か」を考えるのか


・「私とは何か」をどういう状況で考え始めるのか。思春期に考えるということを踏まえると、もしかしたら、落ち着いている時は考えないのかもしれない。大人になると、落ち着いてくる。「私とは何か」について考えなくなっていく人もいるのではないか。そして、それは良いことなのか。

・精神的に良くない時「私とは何か」を考える。子供のために(子供のように?)遊んでいる時は、考えない。年齢が行って死に近づいてきて・・・思うことはある。


大人と子ども

 参加者のみなさんの意見を聞いていると、疑問が沸いてきました。「私とは何か」を考えるのは、思春期に始まったり、精神的に良くない時、悩んだり迷ったする時だという意見がありました。精神的に不安定であることや悩んだり迷ったりすることは、決して心地の良いものではないと思います。
 言語を取り入れて、自分の存在やあり方についてメタ的に思考し始める時だという意見もありましたし、言語によって可能性が狭められているのではないかという意見もありました。

 では、思考するということは、良くないことなのでしょうか。言語や自分を客観的に思考する力の乏しい赤ちゃんや幼い子供の方が、その時その時の瞬間を懸命に生きていて、私たちはそうではなくなってしまうということでしょうか。それは良くないことなのでしょうか・・・。

 杉原の問いかけも入れつつ、引き続き対話を続けていただきます。

・自分探しの旅が流行ってたことがあったが、「そんなものはない」と書かれているものに出会ったことがある。そんなものは無いのだと思った時、安心した自分が居た。

・大人の場合、「そうは言っても、こういうこともあるのでは?」とか色々と周囲から言われることがある。そういうところから、私は、「子どもがその一瞬を全力で生きるように、今一瞬を一生懸命生きる。今日一日一日を大切にする。」というところへ戻っていこうとする。「私とは何か」とは自分にとってそういうこと。

・赤ちゃんや子どもは、100パーセントの自分が出せている。大人になるにつれて自分を出せなくなる。考え(思考)始めた時から不純物が自分に着いてくる。

・赤ちゃんは、お腹が空いたら泣く。大人になったら、今泣いたら迷惑がかかるのではないかと、周りの事を考える。忖度する。自分が出せなくなる。思考そのものが問題なのではなくて、そのことが問題なのでは?

・コミュニティによって自分の顔や態度を変えている。サバイバルであって、上手くやるには、仮面を使い分けなければならない。そういうことが出来上がってしまっている。自分個人と仮面の不一致があると思う。

・私はスポンジでありたい。スポンジのように外から色々なものを吸収していく。一杯になったときに、こぼしていきたい。「私って何?」と考える時は、一杯になって、選択しなくちゃいけないとき。経験や知識によって何かができなくなるのではなくて、その時その時に適したもの対応していけると思う。

・色々知ることによってマイナスになると思う。子どもの頃は、あまり知らないから行動の選択肢は少なかった。知ることによって選択肢が増える。選択しなければならない。そして、選ばなかったことの後悔も生まれる。選択肢が増えることはいいことのはずなのに。「本当の私はこうじゃなかった・・・」と思うことがある。

・子供から大人になるに従って、自分が複雑な状況にいるということが分かる。その中で自分というものを生きれるようになる。色々なものにぶつかって、「私とは何か」を考えるようになる。複雑さを分かっていながらも、なお、「私」を生きようとするならば、子どもより高度な次元で生きていけてるのでは。一見すると、それが子供と同じ事をしているように見えても。

・子どもと大人のレベル差は無い。どちらが優れているとかは無いと思う。

・成長や成熟について考えていいと思う。それと生きていることの価値はわけて考えている。懸命に生きるという意味では、子どもも、大人も、虫も同じ価値のある存在。

・大人も子どもも、どっちが「本当の自分」かどうかは、何か全力でやってるかどうか、それは本当に自分が納得して自分が決めたもので生きているのかどうかだと思う。


玉ねぎの皮

・玉ねぎの一枚一枚の皮は様々な役割(仮面・ペルソナ)かな。その場面に応じて演じ分けている。それを剥いでいったら、何もないって本当かな?「空」と「何もない」は違うのでは?

・立場や役割とか、全部剥がしたら、原子が現れるかな・・・。でもそれを言葉にはできない。赤ちゃんのような核。

・坐禅することによって玉ねぎの中が開いてくるのかな。そしてその中にあるものを自分で客観的に確認できるのかな・・・。

・玉ねぎを剥いでいったら、何も無いと思う。「私とは何か」は無い。でも、「無い」という事を認識している。

・「私とは何か」といっても、そんなものは「無い」という事を良しとする捉え方もアリだし、無いようで中核があるという意見も良しとされていいと思う。どちらの意見もあって面白い!

・玉ねぎも様々かな。自分はどんな玉ねぎかな・・・。(大小、種類など)

突き動かされる「私」

・自意識と「私」を同一のものとして捉える。自意識という言葉はある。でも、実際は自分で決めたつもりだったけど、もっと違うものに操られているんじゃ無いかな。全ての生き物は生き延びるために突き動かされている。

・自意識は顕在化してるものではないですか。一方で無意識がある。夢のなかで出てくるようなもの。無意識の方が強く私を動かしているように思う。

・「私とは何か」は「人間とは何か」ということだと思う。ユングやフロイトが「無意識」を言ったのは、大胆なことだったんじゃないかな。無意識によって動かされているようで、私たちは、自分で自分をコントロールしたいとも思う・・・。


問いを出し合う

沢山の意見が出てきました。繋がるような物もあれば、近しい意見が違う表現によって語られたのではないかと思うこともありました。今日のこれまでの対話から、参加者一人一人に問いを書いてもらいました。一人ひとつ以上問いを書かれた方もいます。

●私とはを考える時に大切にしたいことは何ですか?

●「本当の私」の『本当』とは一体何をもって本当なのか?

●「私」について考える目的は何か?

●私とは何かの回答は皆が共通理解するものは無いのではないか?
(例えば高僧の私とは何かは凡人とは違う捉えではないか)

●人は自己分析を行うことでより社会に適合しようとしているのでは(自己分析を行う理由とは)

●大人になると子供の頃の「私」とは変わってしまうのか

●「私とはなにか」を考えてそれをどう生かすのか?

●「私」とは自己のものさしではないか?

●(世界共通の)真理は存在するか?

●私のペルソナを取り去ったあとは、自分の無意識か?

●「私とはなにか」を問うて、答えが出たとして、「私」はその答えに納得するだろうか?納得しないのではないか?そしてそれはなぜか?

●生きる意志が私の根底か?(ニーチェのように幼子が理想か?ニーチェの理解が間違っているかも知れませんが)


 本当は、時間半ばに参加者に問いを書いてもらって、出された問いを絞り、後半の議論に繋げようと考えていました。けれども、沢山の意見が絶え間なく出て来たので、問い出しをしてもらうために、対話を一旦区切ることができませんでした。時間も限られていたので、皆さんに出して頂いた問いをあえて絞らないことにしました。皆さんが書き出してくださった問いを、画面・スクリーンに映し出しました。皆さんの問いが、全員の目に触れるようにしながら、残り30分程度の時間ですが、対話を続けることにしました。


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「私とは何か」

・「私とは何か」の答えが出たとして、それは「言葉」によって出てくるだろうと思う。答えを出すことはある意味では、有意義だが、その時は納得しても、すぐ納得できなくなるようなものかもしれない。生きているということは一時も留まらず流れているということだから。

・「私について考える目的は何か」というと、自己の不一致から生じている。(目的にするなら)自己の不一致を解消するということになるだろうか。

・他人の意見じゃなくて、納得性を高めて自分の行動につなげることが、「私」について考える目的かな。

・何を持って「納得」と言えるのだろう?どういった状態が納得しているということなのだろう?

・(「納得」に関連して)それは本当の私かどうか。社会に適合であれ、不適合であれ、自分の価値観に取り入れられている部分があり、そのすり合わせをした時に、(自分にとっての)正解・不正解がでてくる。

・「私」という存在は言葉を超えて存在していると思う。ある一瞬は、言葉によって概念としては納得する。でも、次の瞬間には違っている。そういうものではないだろうか。

・禅宗では、「文字で悟りを開けない」とはいいつつ、禅宗に関する文章、書物がかなり多い。本当は文字にできないものなのだとしても、ギリギリまで言葉にしようとするのが、人間の面白さなのではないかな。

・感情と100パーセント一致する言葉は見つからないと思う。子どもの頃は、ただ痛い時に泣く。けれども、そのうち周りの大人から「痛いのね」と言われて、「痛い」という言葉を知る。正解をピタリと言い当てるのではなくて、消去法で一番近いものが選ばれているのではないか。自分の感情にどう名前を付けるのか。それだけではなく、「私とは何か」を考える時も一緒だと思う。そのベースにあるのは感情だと思うから。皆んなでこうして対話をして、「これではない」「あれではない」と消去法でしか正しい答えに近づけない。


参加者の感想

最後に、ご発言の少なかった参加者の方だけにですが、今日の感想をお伺いすることができました。

・「私とは何か」を定義づけできないだろうと思って、それを確認するために来ました。そして、やっぱりできないんだなと思いました。

・自分で何かを思考する為には、その材料になる知識があることが大切なのだと思いました。もっと本を読んだりしようと思いました。


哲学対話を終えて

 今回は、初めてのオフラインとオンラインを融合させた哲学対話になり、うまくいくかどうか不安がありました。メカニカル的なことや音響のことなど、良い方法を考えたり実験する為の事前準備に時間がかかりました。主催の飯山総合学習センターの所長さんが、あまり費用を書けずにどうやって実現できるのか、一生懸命考えてくださり、当日は、不自由なく議論に集中することができました。

 哲学対話は、全員が合意に至る答えを出すことが目的ではないのですが、明確な答えを知りたい方は、物足りなさや不満足な思いを抱かれるかもしれません。私たちは、答えのない問いに常に晒されながら生きている側面があります。それぞれに、疑問を抱くものや、気を引かれるものが違っていると思います。実際に、問いを出して頂いても、皆さんの着眼点が違うことに気がつきます。哲学対話では、「なぜ?どうして?」という疑問を持ち帰ることができたら、良いのではないかなと思っています。まず疑問に思うことがなければ、そもそも考えることがありません。そして、哲学対話の続きとそれに伴って出される答えは、それぞれの皆様が、自ら問いつづけながら、それぞれの生き様の中で体現されていくのではないかとも思います。

 思考する為には、確かに知識がとても大切だと思います。けれども、知識だけなら、辞書を引いたり、ネットで調べたら、それらしいものが見つかりそうです。その知識がどういうものであるのか、正しいものであるのか、十分なものなのかどうか、よく吟味するには、哲学が必要だと思います。その哲学は、素朴な疑問や心の引っかかり、腑に落ちないことなど、感動や、驚きなども含めて、きっともっと私たちに身近なところから始まるのではないかなと思っています。どれだけ本を読んでいるかではなく、ぜひ、臆することなく、堂々と感じたことや考えたことを言葉にして見て欲しいと思いました。

 参加者の方々が、他の参加者の発言を踏まえて対話を繋げてくださったと思います。また、相反する意見が出てきたときにも、それが相反するものだとあえて強調した上で「面白いし、どちらもあって良い」と言葉にしてくださる方もおられました。皆さんの寛容さによって、発言のしやすい空間と時間が作られていたと思います。

ご参加くださった皆様、ありがとうございました。
初めてご参加くださった方々とも、また、次の機会にお会いできると嬉しく思います。


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飯山総合学習センターの駐車場から

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