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氷のレガータ

※「世界警察」シリーズ(中公文庫)関連作品です。(2023/1/9 追記)

○作品データ○

タイトル:氷のレガータ
文字数:117769
舞台:ヴェネチア(少しロンドン)
ジャンル:フロスティサーガ
一言紹介:登場人物は一人を除いて全て外国人です。
 カルネヴァーレと、一度きりのレガータをぜひご堪能あれ。


はるか下の方で川が歌う
川は空と木の葉のすそ飾り。
新しい光は
南瓜の花の冠を戴く。
おお、ジプシーたちの悲しみよ!
清らかな、いつも孤独の悲しみ。
おお、隠れた河床と
はるかな夜明けの悲しみよ!

〈黒い悲しみのロマンセ――ホセ・ナバルロ・パルドに〉
フェデリコ・ガルシーア・ロルカ 会田由訳


  プロローグ――ノース・ロンドン


 地鳴りのような歓声が響いている。
 何万もの人間の声が重なって生まれる音の塊。
 彼らの期待感、渇望、陶酔、かすかな殺気。そんなものが渦巻いて、ひとかたまりになって私の耳に届く。
 ここは市内で最も巨大なフットボールスタジアム。試合前ともなると、内部の通路はひっきりなしに歓声が反響するようになる。特に今日のような大切な試合の夜には。
 いつだって落ち着いている印象があるロンドン市民も、ここへ来れば冷静さをかなぐり捨てる。大声で味方を鼓舞し、敵を威嚇し、両手を振りかざして自分をさらけ出す。
 真冬のロンドンは寒い。陽は数時間前に落ちた。ひどい冷え込みが街を包み込んでいる。なのに、ここに集まった者たちの熱が季節を忘れさせてしまう。緑色の四角い劇場が強力な人工灯によって照らし出され、演者たちが姿を現すのを今か今かと待っている。
 歓声で満たされたスタジアム内の通路を私は進んでいた。警備員に記者証を見せて、選手とスタッフしか入れないエリアへと足を踏み入れる。歩き慣れた通路を奥まで進むと、少しだけ歓声が遠のいた。
 通常、試合前に選手と会うことは許されない。だが今日は選手の方からの指示だった。指定された時間に私はミーティングルームのドアをノックし、ドアを開けた。
 その瞬間、何かおかしい――と察した。
 部屋の中には彼しかいない。
 いつもスタッフやチームメイトに囲まれている彼が、辣腕のエージェントがそばを離れない彼が、たった一人で私を待ちかまえていた。
 何かトラブルが発生したのか?
 覚悟して、部屋に入った。だが目の前の男の顔には微かな笑みが溶けている。大事な試合の直前とは思えないほど穏やかな表情だ。どんなにプレッシャーに強い選手でも顔が強ばるこの時間に、さすがだなと感心する。
「やあ、リサ」
 声も明るい。
「よく来てくれた。まあ座ってくれ」
 と椅子を勧めてくれる。
 私は軽く会釈して、彼の正面に座った。警戒心を押し殺して、礼を言う。
「本当に長い間ありがとうございました。おかげさまで、原稿はほぼ仕上がりました」
 彼は十数回に及ぶインタビューに根気よく答えてくれた。彼との対面取材の延べ時間はどれくらいになるだろうか。あれだけの肉声があれば、原稿にまとめるには充分すぎる。
 私は、この選手の伝記(バイオグラフィー)を執筆しているのだ。
「出来上がっている分の原稿は先週、あなたのエージェントに渡してあります。ご存じでしょうが、最終章は、今季のチャンピオンズリーグの結果を受けて仕上げます」
「決勝へ行くよ」
 男はなんでもないことのように言った。
「そうでなきゃ、恰好がつかないだろう。俺の本のラストは優勝で飾るよ」
 普通の選手が言ったとしたらただのビッグマウス。だが彼が言うと、神が定めた運命に聞こえてくる。不可能を可能にしてきた男だけが使える魔法だ。
 今日、スタジアムに集まっている観客の大半は、彼を見に来た。
 彼は、このスタジアムをホームとするフットボールチームのエースプレイヤーなのだ。
 その名はジュスタン・メシエ。
「当然、来てくれるよな。五月にバルセロナへ」
 今季のチャンピオンズリーグの決勝は、バルセロナのカンプノウスタジアムで行われることが決まっている。
「決勝当日のスケジュールは空けてありますよ。もちろん」
 私は言った。確かに彼が仕切っているチームは絶好調だが、それでも、決勝へ行けるかどうかは五分五分。まだグループリーグを抜けた段階で、ノックアウト・ラウンドの戦いの熾烈さは別次元だ。これからぶつかるのは、世界に名だたる強豪ばかりなのだから。
 だがこの男は自らの運命を疑っていない。
 彼の真っ直ぐな目の輝きは、世界中のフットボールファン、いや、それ以外の人々の心まで捕らえている。
 フランスの白人の父とアフリカ・アラブ系の母親の間に生まれた彼は、容貌も中間的だ。肌は異様なまでに白いが、黒い巻き毛と黒い瞳がいつも光を放っていて、どの人種から見ても不思議にエキゾティックな感覚を呼び起こす。
 笑うととても無邪気な笑顔になる。生まれたての赤ん坊のようだ。逆に、試合中の最も緊迫した場面では殺し屋のような凄惨な表情を覗かせる。そのギャップがまた、多くの人の心をつかんでいた。
 私が彼の取材を開始したのは二年前。私から申し入れたのではない。彼のエージェントからの逆指名だった。
 私はその前の年に、ハンデを持ったアスリートたちを取材したドキュメントをヨーロッパと日本で出版していた。幸いにもそのドキュメントは好評で、テレビシリーズにもなった。メシエ側はその仕事を評価してくれたらしい。それはとても光栄だったが、私の方はプロのフットボーラーの取材は全くの初めて。しかもいきなりスター選手だ。まだ若いジャーナリスト、しかも日本人の女には荷の重い仕事だ、と誰もが考えただろう。当の私がそう考えたのだから。
 もともと、スポーツ専門の記者ではない。ハンデを持ったアスリートたちに魅力を感じたから取材したまでで、それがたまたま評価されて私の代表的な仕事ということになった。でも私の最初の仕事は数学者と物理学者のドキュメンタリーだったし、ここ数年はアフリカ各地の諸問題を追いかけていて、一年の半分はアフリカにいる生活だった。メシエのルーツであるモロッコにも何度か訪れている。
 それがますます私のポイントを上げたらしい。スポーツ記者たちと良好な関係を築いているとは言い難かったジュスタン・メシエは、プロパー以外の記者に仕事を任せたかったようだ。
 私はスポーツに関わる仕事からは離れようと思っていたので、依頼を引き受けるかどうか迷ったのだが、メシエには興味が湧いた。彼の存在は知っていたが、プレーはきちんと見たことがなかったので、出場した試合の映像を取り寄せてまとめて見た。
 ひと目見て、彼が特別なプレイヤーだと分かった。
 フットボールをまともに見るのはずいぶん久しぶりだったけれど、そんなことは関係なかった。フットボールのルールを知らない人間が見たって、彼の非凡さは感じ取れるはずだ。
 まず目を惹くのは、彼のボールタッチの柔らかさ。足がボールを優しく扱う様は、まるで大切なペットでも撫でているようだ。そうしてボールを離さないまま、変幻自在な足技で相手選手を抜き去ってゆく。絶好調時に彼からボールを奪うのは至難の業だ。目の前に何人いようが恐れずに切り込んでいく。そのドリブル突破は、氷山だらけの海に挑む砕氷船の如きで、日本人の私などは義経の八艘跳びを連想してしまう。
 だがそれはメシエの一面に過ぎない。エゴイスティックなドリブラーでは決してなく、彼の真骨頂は視野の広さとイマジネーションの豊かさにある。
 彼のパスはしばしは、思わずうっとりしてしまうほどの芸術的な軌跡をピッチに描く。時には冷徹な数学者の幾何学的計算を思わせ、時には偉大な彫刻家の鑿の一撃に見えた。ピッチを劇場にたとえるなら、彼はいわば、天才的な演者であると同時に全能の演出家だった。
 プレースタイルはクラシックなファンタジスタに近い。細身でも体幹がしっかりしており、たいがいのチャージには負けない。何より、並外れた予測能力が鎧となって彼を守っている。相手選手の思考を瞬時に読んで利用するのだ。実際、彼はいままで大きなケガとは無縁。それも大成する選手に必要な資質だ。
 もちろん、相手の捨て身のスライディングに足ごと刈られてしまうこともある。だが何度倒されても彼は怯まずに立ち向かってゆく。審判に抗議することはめったにない。時間の無駄だと知っているのだ。倒されても痛がったり、敵に毒づいたりしない。すぐ次のことを考えて動き出す。そのフェアで不屈なメンタリティが世界中のファンを痺れさせていた。
 しかも彼はまだ若い。二十四歳、私より四つ年下だった。
 母国のフランスは、いまや彼を下にも置かない扱いだ。フランスには何年かに一度、創造力にあふれる選手が現れて代表チームを牽引する伝統がある。ジュスタン・メシエは、一世代前にフランスに栄光をもたらした大選手を彷彿とさせた。同じアフリカ・アラブ系。ただし見た目はまったく違う。メシエは、華奢な少年のようだ。
 それでも彼は、現代表チームの〝皇帝〟と呼ばれている。小柄だったナポレオンになぞらえたのだ。過去の英雄をなぞるように、彼はヨーロッパを制覇しつつある。次のFIFAバロンドール(年間最優秀選手)の受賞は確実視されているし、四年前に彼が加入してから、長く低迷を続けていたロンドンの名門チームは常勝軍団となり、いまや完全復活を遂げた。昨季、久しぶりのプレミアリーグ優勝をなし遂げ、今季も現在首位。リーグ連覇へ視界は良好で、チャンピオンズリーグの優勝まで窺っている。
 彼が率いる今のチームなら、不可能ではない。みんなそう思っている。
 もし二冠を達成できたら――彼の伝記のエンディングを飾るには最高の結末だ。しかし、チーム力と運を併せ持たねば決して獲れないのがチャンピオンズリーグのタイトル。どんなに中心選手の調子がピークでも、他の選手の調子が悪かったり、チーム状態が万全でないと到底決勝までは勝ち上がれない。カードの累積やケガで出場できなくなり、頂点に手が届かず夢で終わる一流選手のほうがずっと多い。
 だがジュスタン・メシエは並外れた強運の星の下に生まれついている。
 彼ならきっと――全てを手に入れる。
 人々はそう信じている。かく言う私も、そんな気がして仕方がなかった。
 いま確かに生きていて、同時代を生きる人間なのに、彼はすでに伝説の中の存在だ。今、私の目の前にいるのに。
「どうした? リサ」
 彼がいたずらっぽい目つきで私の顔を覗き込んでくる。
「いえ、別に」
 そう言ってごまかした。なぜこんなタイミングで私を呼んだのか知りたかったが、こちらから訊くのははばかられた。
 ジュスタンは私の気持ちを、そこはかとなく感じ取ったようだった。改まった口調で喋り出す。
「きみは本当にいい仕事をした。原稿を読んで、俺は自分の人生を、そっくりまるごと生き直したような気がしたよ。俺は間違ってなかったし、このまま進んでいいんだって思わせてくれた。リサ、きみのおかげだ」
 もう原稿を読んだのか? 意外だった。ここのところ試合は過密日程だし、原稿のチェックは有能なエージェントに任せておけばいい。だが彼は自分で目を通したと言う。
「私はベストを尽くしただけです。あなたのような最高のモチーフを活かせないようでは、プロフェッショナルとは言えないですから」
「ふん。きみらしい答えだな」
 機嫌を悪くしたのかと思ったが、彼は顔に笑みを貼りつけたままだった。
「きっと気に食わない部分もあったでしょうけど」
「いいや。気に入ったよ。すごく気に入った」
 私は原稿の中で、手放しで彼を礼賛したりはしていない。手加減せず厳しく書いたところもある。たとえば、自分と合わないチームメイトは容赦なく責め、時には排除してしまうこと。フランスリーグ時代には監督と真っ向から衝突し、チームのオーナーに「監督と自分のどっちをとるのか」と迫り、結果、監督を辞任に追い込んだことさえある。並外れた勝利への執念は、多くの人を傷つけても来たのだ。私は当時の選手や監督たちに取材し、全てを原稿の中に取り入れた。
 そんなことを赤裸々に綴られたら気を悪くしても仕方ない。私は、解雇されることさえ覚悟していたのだ。だが目の前のジュスタンはまるで気にしていない。むしろ、それも含めて評価してくれたようだ。
 プロはプロの仕事を理解する。そう思っていいのだろうか。
「特によかったのは、母さんへのインタビューだ」
 ジュスタンの目が優しい。
「母さんが、きみにあそこまで喋るなんて……まったく驚いたよ」
 彼の母親に話を聞けたことは、とても印象深い体験だった。いまや世界中の人々が憧れる男を育てたのは、いったいどんな女性なのか。幼児期から少年期、青年期を経て、スターになるまでの全てを見届けてきたのは彼女だけだ。
 モロッコからの移民として、十代のうちにフランスにやってきたマリカ・ザーリは、二十歳を過ぎた頃、CNES という政府機関に勤めていたフランス人のミカエル・メシエと恋に落ちた。そして生まれたのがジュスタンだ。
 ところがジュスタンは、すぐ父親と死別。彼は父親の顔も声も憶えてはいない。
 マリカは、夫を失っても故国に帰らなかった。頼れる人間など誰一人いない中で、異国に踏みとどまり、一人息子のために人生を捧げる決意をした。彼女は落ち着いた眼差しと掠れた声の持ち主で、私の質問に訥々と、感情を込めて答えてくれた。息子は今や大金持ちだが、自分は今も質素な生活を送っている。その飾らない人柄に、私は崇敬の念を覚えずにはいられなかった。だから、彼女に触れた章では自然と筆に熱がこもった。
「母さんは、こんなふうに思ってたんだ……って、初めて分かったこともある。俺が訊いたって答えないようなことを、きみは訊き出した。俺は……感謝してるよ」
「ありがとうございます」
 メシエ親子はずっと、パリの貧しい地区で暮らしていた。今でこそ母親を別の地区に住まわせているが、ジュスタンはプロ選手になるまで貧しい地区から抜けられなかった。典型的なマイノリティとして少年時代を過ごし、フランス市民として公平な扱いを受けたと感じたことはなかった。教育も、生活レベルも最低限のものしか与えられなかった。未来は閉ざされ、一生貧乏から逃れられないように見えた。
 だがジュスタンには突出した才能があった。ストリート・フットボールの王様だったのだ。近所の子供も大人もジュスタンには早々に降伏し、自分のチームに入れたがった。その噂はプロチームのスカウトの耳に入ることになり、ジュスタンは路上でスカウトされた。
 ジュスタンは迷わなかった。底辺から抜け出すチャンスだった。
 スカウトされたチームでも彼はすぐ王様になった。十代のうちに、フランストップリーグの中堅クラブの絶対的エースになったのだ。彼はヨーロッパ中のクラブから熱視線を浴びた。殺到するオファーのなかからメシエは、〝ドクトル〟と呼ばれるフランス人の知将が率いるロンドンの名門を選んだ。それからはスターの座へとまっしぐらだ。
 ナショナルチームでもまたたくまにレギュラーの座をつかんだ。モロッコ国籍も持っている彼はモロッコ代表を選ぶこともできたのだが、生まれ育ったフランスを選択した。愛国心が理由ではない。より優れた選手たちとの、より高い次元での戦いを求めたのだ。
 彼は、全てのフランス人選手の上に君臨するつもりだった。
「人間には二つの使命がある。一つは、自分が持って生まれた才能を知ること。もう一つは、その才能を極限まで使うことだ。そのために、努力を惜しんではならない」
 プレーだけではなく、大胆な発言、独立心に富んだパーソナリティ、そのすべてが刺激的だった。ジュスタン・メシエは、ただのフットボーラーの域を超えて世界中の人々を魅了している。輝ける若者の行く末を、誰もが見届けたいと願っている。
 彼のバイオグラフィーが待望されるのも当然だった。彼の生い立ちを知りたい。彼はどうやってジュスタン・メシエになったのか? どうしてこんなに眩しいのか?
 そして私は世界中のジャーナリストからやっかまれている。メシエは取材嫌いでも知られていて、接触できるジャーナリストはほんの一握り。その中でも、彼の伝記を書くことを許されたのは、私一人だからだ。
 なぜ日本人? しかもあんな小娘が……ただの愛人じゃないのか? そんな根も葉もないゴシップさえ囁かれる始末だった。
 そう、彼のウィークポイントは女性かも知れない。彼のまわりには常に複数の女性の影がある。ゴシップは私の守備範囲外なので正確なことは分からないが、女優、モデル、シンガー、実業家など、流れた噂は十指に余る。まあ、これだけの男を、女性たちが放っておくはずもないのだが。
「ゴシップなんか信用するな」
 訊いてもいないのに、彼は私にそう言ったことがある。
「俺は理想が高いんだ。よほどの女でなきゃ手を出さない」
「そうですか」
 私は取り合わず、前の試合のアシストのことを訊いた。だがメシエはこう言った。
「俺の身持ちの堅さを知ったら、きみはきっとびっくりするよ」
 少年のようなきれいな瞳が、まばたきもせず私を見つめた。私は困って目を伏せてしまう。こんなふうに見つめられることを夢見る女性が、世界にいったい何百万人いることか。
 それにしてもジュスタンの英語は年々進歩している。最近はフランス人だということを忘れるくらいだ。彼には抜群の適応力がある。それは、成功するアスリートに欠かせない資質だ。
 だがその舌は快調すぎるくらいだった。
「リサは恋人と過ごす時間があるのか?」
 ロンドンや、チームの遠征地に顔を出しては、取材を終えるとまたアフリカや日本に発つ私を見て、彼はたびたびそう訊いてきた。
「そう世界を飛び回ってちゃ、男は淋しがってるだろう」
「ご心配いただいて恐縮です」
 私はいつもにこやかに受け流した。まともに相手をしてもいいことはない。だがジュスタンは、懲りずに私の心配をしてくれた。たいがいはニヤニヤしながら。
 そしてジュスタンは今日も、そのいたずらっ子のような笑みを私に向けている。
「あとは俺の、今季の活躍次第ってわけだ。まもなく、きみの仕事は終わる。いい締めくくりを書いてもらうためにも、最後にビシッと決めなくちゃならないな」
「期待しています」
 私は控えめな笑みを作った。むろん、シーズンが終わって彼がトロフィーを手にしているかどうかは分からない。だが今季の優勝を逃しても、どのみち本の結末はつけることになる。伝記はもう完成させなくてはならない。
 私はこの仕事に時間を取られすぎた。世界的なスターとの仕事は、犠牲にしなければならないことが多すぎる。終わらせて、次に向かわなくては。
 私は人生をジュスタン・メシエに捧げたわけじゃない。
 ジュスタンは笑っている。その笑顔はとてもキュートで、まるで光を発しているように見える。私のにこやかさなど太刀打ちもできない。スターしか持ち得ない顔というのは、あるものだ。
 ところが、そのきれいな顔から、いやに真剣な声が放たれた。
「きみと会ってから、もう丸二年になるよな」
「ええ」
 私は慎重に相槌を打つ。
「短いつきあいじゃない。俺たち、けっこう長いこといっしょにいて、話をしたよな」
「そうですね」
 内心は警戒しながら、私はできるだけ何でもない顔をした。
「俺は本音を話したつもりだ。俺が、どんな男か……きみは本気で感じてくれた」
 ジュスタンの声はますますシリアスになってゆく。
「俺を理解してくれた。だからあんないい原稿ができたんだ」
「ありがとうございます」
 私は小さく頭を下げる。あくまで丁寧に。
「礼を言うのはこっちだ」
 声の真剣さに比べて、眼差しはびっくりするほど優しかった。彼はときおり、若さに似合わない成熟した表情を覗かせる。笑ったときの無邪気さとのギャップは、たしかに女性ファンにはたまらないだろうと思う。
「でも俺はまだ、話し足りない気がしてる」
「そんなことありませんよ」
 私は素早く口を挟んだ。
「あなたは充分すぎるほど話してくれた。だから私も、悔いの残らないものが書けたんです」
 違和感は強くなるばかりだった。しかし私は表情に出さない。
「あなたが包み隠さず、勇気を持って心の奥をさらけ出してくれたおかげです。とても感謝しています」
 心を込めて言ったつもりだった。ところが、
「まだ足りないんだよ、リサ」
 ジュスタン・メシエの声は、かつて聞いたことのない響きを帯びた。
 部屋に沈黙が落ちる。
 閉め切ったこの部屋の中にも歓声は入り込んでくる。観客たちの声はますます大きくなっている。キックオフが待ちきれなくて、早い時間からどんどん人が押し寄せているのだ。そして途切れなく唄っている。
 それが、この男のエネルギーになる。
「そろそろミーティングでしょう。チームメイトのところに戻った方が……」
 私が言っても、ジュスタン・メシエは私の顔から目を離さない。
「この仕事が終わったら……」
 その声の揺るぎなさに、私は全身をつかまれたような感触を覚える。
「仕事抜きで会ってくれないか」
 声が終わっても、いつまでも部屋の中に響いている気がした。
「きみと会いたいんだ。この先も」
 私は――聞いてしまった。決定的な言葉を。
 しらばっくれることはできなかった。いつだって率直な彼が、何を言いたいのかは明らかだったからだ。
 だから私は答えられない。
「俺じゃ不足か?」
 私が固まっているのを見て、彼はふいに、真剣な表情をゆるめた。ニヤリとする。
 私も息をついた。
「なにを……言うんですか」
 やっとのことで言う。
「悪質な冗談ですね。しかも笑えない」
「冗談だと思うのか」
 メシエの声は優しすぎた。
「きみなら分かると思うけどな。俺が冗談を言ってるのか、そうでないのかが」
 その目ににじむ悲しみに、私の心は揺さぶられる。
「そんな……」
 ごまかして逃げることはできそうにない。私は声を落とし、どうにか言った。
「どうして……私なんかを」
「きみが、世界でいちばん俺を理解してるからだ」
 メシエの答えははっきりしていた。
「きみから浴びせられる質問の一つ一つが、まるで癒しだったよ。俺が言いたいと思って、でもうまく言えなかったことが、きみのおかげでするする引き出されていく。きみはほんとうに、アスリートの心のエキスパートだな。いや……相手がアスリートに限らない。俺が思うに、それは本物の人間にしかできないことだ。きみは最高のジャーナリストで、そしてなにより、血が通った人間なんだ。すごく人間らしい人間なんだな」
 あなたは英語が上手すぎる。そう非難したくなった。フランス生まれだなんてウソでしょう? あなたの伝えたいことが分かる。そして、それが凄く嬉しい。
「だから――いつまでもきみと話していたくなった。できる限りそばにいたくなった」
 彼の一言一言がまるで、彼得意のインパクトの強いシュート。あるいは無回転フリーキックだった。威力がありすぎる。
「俺は、きみと人生を共にしたくなった」
 いや――彼の言葉は爆弾だ。
「きみの愛情を感じたんだ。相手を深く理解してなくちゃできない質問ばかりだった。それって俺の錯覚か、ただの願望か? きみの愛は、取材対象への愛に過ぎないのか?」
「それは……」
 私に呼吸をさせない。彼は一気にたたみかけてきた。
「俺は救われた。きみにこの仕事を任せて、ほんとによかったよ。この本は傑作になるし、世界中の人たちに喜んでもらえると思う。そのためにも俺は勝ち続ける。しかも、美しく勝つ。世界一になって、カップを掲げて、すべてを手に入れる」
 勝負所を見逃さず攻めてくる。試合を決めてしまおうとする。さすが〝皇帝〟だ。地上に覇を唱える資格のある、ただ一人の男。欲しいものは必ず手に入れる。
「だけど、俺がいまいちばん欲しいのはきみなんだ」
 メシエの目は、まるで光を発しているかのようだ。
 私は目を閉じた。
 こんなことが、私の人生に起こるとは……自分で言うのも何だけれど、私は冷静な人間を自負している。仕事のスイッチが入っていればできる限りの客観性を保ち、公平に物事を見ることができる。自分の感情には左右されない自信がある。
 だがこの稀代のアスリートは、私のガードをたやすく突破してきた。
「なあ、リサ。仕事が終わっても、会ってくれるよな」
「……まもなく試合ですよ」
 私はジュスタンから顔を背けて、壁にかかっている時計を見つめて言った。その針が何時何分を指しているか理解するのに、こんなに苦労したことはない。
「きみの答えを聞くまではピッチに出ない」
 そんな馬鹿な――耳を疑った。六万人がメシエの出番を待ちかまえているのだ。そして、何十台とあるテレビカメラの後ろには、億単位の人間がメシエの魔法を楽しみに待っている。この男がピッチに出ないなんてことはあり得ない。ひどい冗談だ、スーパースターを足止めしている……たった一人の女が。この私が?
「こんな脅迫は……初めてです」
「だろうな」
 メシエは平然としている。時計の方を見もしない。
「ふざけるのはやめて」
 腹が立ってきた。私を追い込むためにこのタイミングで呼び出したのならフェアじゃない、そう思ったのだ。タチが悪すぎる。
「もう行かなきゃ駄目よ。みんなが心配してるでしょう」
「きみが答えてくれたら、すぐ行く」
 ジュスタンの目は変わらない。どうしてこんなに――愛おしそうに見つめられるんだ?私なんかを。
「俺が本気だってことだよ。何よりも、本気だ。タイトルがかかった試合のときよりも」
 彼は嘘を言っていない。この美しい瞳を見れば、疑うこと自体馬鹿げていた。
 だめだ――曖昧にやり過ごすことはできない。
 今ここで、彼に答えるしかないのだ。
 ジュスタンのやり方はもしかすると、この上ない親切なのかも知れない。逃げ道を塞がれたら頷くしかなくなってしまう。こんなふうに追い込まれなくとも、彼の前ではほぼ全ての女性が喜んで頷くだろう。私も――素直に頷いてしまえばいいのか。
 いや。
「私はジャーナリストです」
 硬い声が出た。
 自分の中にある揺るぎないものを感じて、少し安心する。
「あなたと仕事するために来たんです。ムッシュ・メシエ」
「どうしてそんなに他人行儀になる?」
 彼は傷ついた少年のような顔になった。
 確かに私は、今までムッシュやミスターと呼ばないようにしてきた。ジュスタンと呼んでくれ、と会ってすぐの頃に言われたのだ。だからファーストネームを呼び続けてきた。控えめに、だが。
 親しくなりすぎると馴れ合いになる。いい仕事ができなくなる。ニュートラルでフェアなはずのバイオグラフィーが、対象を美化したプロパガンダに堕してしまう。そんなものは人に読ませられない。決して本物の感動を呼びはしない。だから、よけいな儀礼は省略しつつも、距離は慎重に保ってきたつもりだった。
「信じなくてもいいが、俺はロンドンに来てからパートナーを持ってない。一度だって、恋はしてない」
 ジュスタンは言い切ったが、私は眉に唾をつけたくなる。ジュスタンの言う恋が私が言う恋と同じかどうかは怪しい。一夜限りの遊びを、彼がどう勘定しているかは疑わしかった。
「恋したい相手がいなかったんだ。まるで、ひとりもな」
 だがジュスタンの、私を見つめる目はあまりにも真っ直ぐだった。
「俺はずっと捜し続けてきた。で、やっと見つけたんだ。本気で愛せる相手を」
 彼の眼差し。ちょっとした言葉使い。声の優しさ。いっしょに歩くときに、私を気遣う様子。その一瞬一瞬に、漂っていたもの。
 感じないようにしてきた。気のせいだと思おうとしていた。
 たとえジュスタンが私に好意を抱いているとしても、それは気まぐれの、ほんの軽い気持ち。小柄な少女のような私を、微笑ましく思っているだけ。あるいは、東洋人への単なる好奇心。そんなありふれたものに過ぎない。そう思っていた。
 だがジュスタンという男は、私の想像を越えていた。
「答えてくれ。簡単なことだろう? ハイかイイエだ」
 ジュスタンはわざと日本語を使った。
「俺が欲しいのはきみだけなんだ」
 ここを立ち去りたい。ジュスタンの眼差しを浴びているだけで、私の心は思いもかけなかった色に染められてしまう。こんなの、なんて私らしくないんだろう? 自分にがっかりするほどだ。
「ジュスタン、私は……」
 どうにか声を絞り出す。すると彼は、
「ムフタール」
 と言った。いつの間にか、息がかかるほど近くに顔がある。
「そう呼んでくれ。俺のことをそう呼んだのは母親だけだった。だが、リサ。きみにはそう呼んでほしいんだ」
 私は動けない。
 もちろん知っている。ムフタールとは、アラブ系の母親につけられた、ジュスタンのもう一つのファーストネーム。意味は、〝選ばれし者〟。なんと彼にふさわしい名前だろう。
「リサ。きみを愛してる」
 ほんの、目と鼻の先から発される声。
「俺の思いを受け入れてくれ」
 こんな甘い言葉は聞いたことがなかった。
 こんな痛みは感じたことがなかった。
 まるで時間が止まっている気がする。
 いや、違う……試合時間は刻々と近づいている。世界中の人がジュスタンを待っている。
 答えるしかない。私は、言った。
「……ごめんなさい」
 ジュスタン・メシエの顔が強ばった。
「ウソだろ!」
 彼はいきなり、天井に向かって怒鳴った。私は身をすくめる。
「恋人がいるのか?」
 ジュスタンは怒鳴るように訊いてくる。
「いいえ」
 私は小さく答える。
「じゃあ、好きな男が?」
「いいえ」
「じゃあ俺を愛したらいい。何が問題なんだ?」
 私は答える言葉を持たなかった。だが、ジュスタンは許さない。
「言ってくれ! 言ってくれなきゃ分からない」
「……説明しても、分かってもらえるとは思わない」
 私が言うと、ジュスタンは目を見開いて唇を震わせた。絶望と怒りがその顔をかつてないほど凶悪にしていた。
「信じられない!」
 ジュスタンは叫び続けた。
「最高の男を袖にするなんて! きみは頭がおかしいのか? それとも……」
 言葉がいきなり理解できなくなった。母国語を使い出したのだ。私はフランス語が得意ではないので、よく理解できなくて幸運だったかも知れない。それでも、
「男が嫌いなのか? このレズ野郎!」
 と言ったのは何となく分かった。貧しい悪ガキだった頃のジュスタンが舞い戻っている。床を踏みならしながら怒鳴った。私は黙って嵐がおさまるのを待った。
 ジュスタンはさんざん荒れ狂ってから、ようやく英語を思い出したようだった。
「……俺は、特別な男だ。そしてきみも特別だ。俺を完全に理解してる。それって……愛があるからできることだろ!」
 ジュスタンはさっきより近くに顔を寄せてきた。私の目を覗き込む。魂をねじ伏せようとするかのように。
「きみは俺を愛してる」
 私は目を伏せる。
「ごめんなさい」
 そう繰り返すだけ。
 ジュスタンは両手で顔を覆い、椅子に深々と腰を落とした。
「きみは愛を知らないんだ」
 小さな呟き。椅子に収まっているその身体は、いたいけな少年だった。
 私は頷きそうになったが、ただじっとしていた。
 どうすることもできない。何もしてやれない。
 そのときノックの音が聞こえた。ドアが開き、チームスタッフが部屋に入ってくる。
 漆黒の肌に、大きな目。コーチのエリック・ヌジャンカだった。
「ジュスタン。ドクトルが呼んでる」
 ヌジャンカは重々しい声でそう告げた。
 ドクトル、とはチームの監督の愛称だ。就任したのは五年前。以来着実に、低迷していた名門を強豪に返り咲かせた。美しいパスワークと、全選手がハードワークを厭わないコレクティヴなフットボールを標榜していて、ドクトルがその中心に据えたのがジュスタンだった。
 ドクトルとジュスタンはだれよりも関係が深い。同じフランス人だから、ということだけでは説明がつかない。親子よりも深い結びつきと言われていた。
 今の自分があるのはドクトルのおかげだ。ジュスタンは事あるごとにそう語っている。そのドクトルの授業が始まる――試合直前のミーティングだ。対戦相手の分析と、勝つための戦術が選手に授けられる。それは呪文のように選手たちの心に作用し、最高のパフォーマンスを引き出すことになる。
 そのミーティングには、ピッチ上の指揮者たるジュスタンがいなくては始まらない。
「ジュスタン。行って」
 私は言った。
「私ももう、行きます」
 椅子から立ち上がった私に、ジュスタンは縋りつくような眼差しを向けてくる。
「今日の試合は? 見ていってくれるんだろ?」
「ごめんなさい。すぐに発たなくてはならないの」
「どこへ行く?」
「……言わなくてはいけない?」
 ジュスタンの傷ついた表情から私は目を逸らす。踵を返して部屋を出て行こうとした。
「待てよ」
 呼び止められた。彼の顔を見ると、また獰猛な表情に変わっている。
「俺は世界中に友達がいる。すぐにつきとめるよ。きみがどこにいるかを」
 その声にこもっている感情――。まるで憎しみだった。
「きみは俺の天使だ。そして俺は、きみの騎士。きみがそれに気づいてないだけだ」
「いいかげんにして」
 私は声を荒らげた。
「若い男の子にはありがちなことよ。頭に血が上ってるだけなの。放っておけば冷めていく。私のことなんか考えないで、プレーに集中して」
「きみのために勝つ」
 ジュスタンを止めることはできなかった。
「俺のような男は、他にはいない。俺を選ばないのは間違いだ。後悔するぞ」
 私は悲しくなる。ジュスタンが本気だ、と分かれば分かるほど悲しい。
「あなたならすぐ、自分にふさわしい女性を見つけるわ。私のことなんかすぐ忘れる」
「忘れねえよ、クソ! 日本人め!」
 ヌジャンカコーチが目をまるくしてジュスタンを見ている。それから、私を見た。
 私はコーチの目を見ることができない。
「ビッグゲームの前で緊張してるんでしょ? 私をからかって、プレッシャーをごまかそうとしてる」
「バカなことを言うな」
 ジュスタンは唸るように言った。
「あなたはビビッてるのよ。ジュスタン・メシエはその程度だったの? 今日の相手なんか簡単に倒せるでしょう。あなたなら」
 するとジュスタンの目がギラついた。
「相手はイタリア王者。でも、あなたなら彼らの守備なんかズタズタに引き裂ける。退屈なカテナチオなんかぶち破ってやりなさい。時代はあなたのものだって見せつけてやるのよ」
「チクショウ! 日本の女ギツネめ!」
 ジュスタンはまた私を罵った。激怒しながら笑っていた。強敵を倒せる悦びに震えていた。いったいに、何と魅力的な男だろう。
 彼との仕事はとても楽しかった。いや、最高に楽しかった。彼との仕事がまもなく終わってしまうのは淋しい。とてつもなく。
 私は彼を愛している。そう――弟のように。
「勝ち続けてやる! そして気づかせてやる。俺以上の男はいないってことを」
「あなたはもう、誰よりも輝いてるわ。みんながあなたを愛してる。私なんか必要ないの」
「俺が欲しいのはきみだけだ」
 ジュスタンは揺るがなかった。
「あきらめるつもりはない」
 ジュスタンの言葉が私に向かえば向かうほど、私に届かなかった。
 神に嘉された、ほんの一握りの人たち。ジュスタンはその中でもとりわけ、神に愛されている存在に見える。その特別な輝きを二年に渡って、私はそばで見てきた。とても素晴らしい体験だった。
 でも――私は満足できなかった。
 ジュスタン、あなたに会ってますます確信できたの……私はやっぱり、彼に会わなくてはならない、と。
 地の果てまで追いかけて、彼を捕まえなくては。
 本当に捕まえられるかどうかは分からないけど。たとえ会って言葉を交わすことができても、目の前にいることが信じられないかも知れないけど。
 ジュスタン。あなたには到底説明できない。だれにも説明できるとは思えない。
 でも私は、行かなくてはならないの。どうしても。
「ジュスタン。時間がない」
 私たちのやり取りを辛抱強く見守っていたヌジャンカコーチが、低い声で言った。
 ジュスタンがコーチの方に目を泳がせる。
「行きなさい、ジュスタン」
 私はきっぱりと言う。
 ジュスタンはもう何も言わなかった。横目で私を睨んでから、まるでタックルで脛を折られたみたいな足取りでミーティングルームを出て行った。
 私は思わず、ホッと息をつく。
「リサ」
 コーチが私を見ている。
「こんな彼は見たことがない。このままだとプレーに影響する恐れがある」
 心配げに眉を顰めている。私は、胸を刺されたように感じた。
 ヌジャンカコーチの発言には重みがある。このチームはイングランドのチームでありながら、トップチームにイングランド人は五人ほどしかいない。ナイジェリア、ガーナ、コートジヴォアールなど、ブラックアフリカ系の選手が多いこのチームでは、ヌジャンカコーチが父親のような役回りだった。ヌジャンカ自身、かつての名選手だ。〝不屈のライオン〟と呼ばれるカメルーン代表で十年以上キャプテンを務めた国民的英雄である。
「ドクトルも心配してる。彼もきみのことは評価しているが、しかし、ジュスタンへの影響を考えると……」
 彼の言葉は身に沁みた。ふだん素朴な笑みを絶やさない彼の顔を、こんなに曇らせてしまうなんて……彼もドクトルも知っているのか? ジュスタンが私に特別な感情を持っているということを。
「ご心配なく」
 私は急いで言う。
「仕事さえ終われば、私はジュスタンに近づきません。約束します」
「そうか……」
 コーチは頷いて、何とも言えない目で私を見た。
「ドクトルにもそう伝えてください。私が約束を守る人間だということは、ドクトルもご存じのはず」
 コーチはまた頷く。有り難いことに、彼は私のことを嫌ってはいない。私もこのコーチが好きだ。今、あらゆることがうまくいっているこのクラブの象徴のような人だと私は思っていた。組織を支えるのは人柄だ。いくら高い能力を持っていても、人徳を併せ持っていない者は組織をまとめられない。
 彼に会えなくなったらとても残念だ。だが、覚悟しなくては。
 もし私がまたフットボールを題材にして仕事をするとするなら、選ぶのはこのチームそのものだ――このロンドンの名門を再生させたフランス人監督と、その右腕たるアフリカ人に迫りたい。そう、なんとなく考えていた。でももう無理になった。私がジュスタンのそばにいることは許されないのだから。
 それでいい、と思った。おかげで思い切ることができる。ジュスタンとの仕事に後悔はない。むしろ、感謝ばかりだ。稀代のスターの輝きをこの目で確かめられたことこそが、私をもっと大事なことに向かわせる原動力になってくれた。
 私はヌジャンカコーチに別れを告げ、スタジアムの歓声をあとにした。
 試合を見届ける必要はなかった。イタリア王者をもってしてもジュスタンのチームを止めることはできない。ジュスタンは、こんなところで倒れる男ではない。
 早く試合が始まるといい。ヌジャンカは心配していたが、キックオフのホイッスルが鳴れば、ジュスタンは瞬時に私のことを心から閉め出すだろう。だから彼はピッチ上の皇帝なのだ。
 スタジアムのゲートから外へ出る。振り返ると、強力な照明が夜空を照らし出している。凍てつくロンドンへと、人々を誘う誘蛾灯のように。
 ふいに歓声が大きくなった。ジュスタンがピッチに現れたのだろう。
 私は思わず口もとをゆるめる。これから世界中が、ジュスタンの舞踏に酔いしれるのだ。
 手を上げてタクシーを停めた。乗り込んで、ラマダ・ジャービス・ホテルまで、と行き先を告げると、携帯電話を取り出して国際電話をかける。国番号の39に続いて、調べておいた番号をプッシュした。苦心して突き止めた番号だ。ちょっと、祈るような思いだった。
 コールしている間に腕時計を見る。相手の国との時差は一時間だから、まだ迷惑な時間ではない。
 相手はすぐに出た。低い男の声が、
『Pront?(もしもし)』
 と訊いてくる。
 ボナセーラ、と返し、私は一言一言、気持ちを込めて喋った。
 用件を話し終えるまで、相手は黙って聞いてくれた。
 やがて相手は、訛りのある英語でいくつか質問をしてきた。
 私は全てに誠実に答える。そして、
「明日、そちらにおうかがいしたいんですが」
 と言うと相手は、
『じゃあ、待っているよ』
 と言ってくれた。
 ありがとうございます、では明日、と言って電話を切ると、胸の底から喜びと興奮が湧き上がってきた。この感覚は、他のどんな仕事でも得られない。
 明日の朝一番で、東に向かう旅客機に乗ろう。
 ヒースロー空港からマルコポーロ空港へ。
 タクシーのシートにもたれかかって、目を閉じると……
 長年夢見てきた、まだ見ぬ男の背中が、はっきり見える気がした。


  Ⅰ 再びの冬

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