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エモエモキュンキュン

人類の進化とはすごいもので、250kmの物理的距離を90分で繋いでしまった。
年齢の進歩とはすごいもので、この90分片道1万円を自身のお金でポンポンと出せるようになってしまった。
GW前半は実家に帰省した。
ただ気付けば今月3回目の帰省なので親と話すことはすでに消滅。
ただ顔を見せていればいいのだろうと父親との会話は「このスピーカーはBluetooth対応か否か」の二択だけであった。
対応していないので私はair podsのノイズキャンセルを使い実家を自宅にした。

私はめいほく保育園というところに通っていた。
この“めいほく”という名詞は名古屋の北、つまり“名北“であるとこの度認識した。
私の世界は名古屋の北であって、“めいほく”という地域ではない。
この地域は少年時代にしか存在しない地域である。
言葉の意味や新しい単語を覚えることにより、その解像度が上がる。
それにより幼少期の単語の意味が消失する。

シティーボーイの定義をしようと思う。
“シティーボーイ“とは街の少年である。
住み慣れた街を知っている。
今思えばこれは物理的な距離ではない。
そんなことは知っている。
遊び方や、交友関係、住まい、趣味全てを包括して自身のシティーに適応していればそれは“シティーボーイ“である。
誰でもシティーボーイになれる。
決してチノパンにスニーカー(白ソックス)、XXLのビッグTにベースボールキャップを被るなどの外面が要素になるわけではない。
この大切な要素として、“街を知っている“ことが挙げられる。
この街を知っているという要素を取得するために、物理的な距離が一定数必要になる。
ここで初めて物理的な要素が出てくる。
私は名古屋中心部に自転車で通っていた。
物理的に通える地域に住んでいたのだ。
このアイデンティー(自転車で通える地域に住んでいる)を持って私は自身をシティーボーイと呼称していた。

このアイデンティーが消失した話である。

名古屋市は愛知県に所在している。
ただ私の周りの友人は皆須く名古屋出身を自称する。
愛知県出身ではない。
愛知大学が名古屋大学と比較対象にならないことと同義である。
つまり愛知県のシティーは名古屋市である。

このシティー(名古屋)は市民感覚で言うところの、名古屋駅、伏見、栄、矢場町を指す。
中心街は決まっているのだ。
感覚的に兵庫県と三宮市に似ている。
皆三宮に出ると同じように愛知県皆栄に繰り出す。
この地域に私は自転車で通うことができた。
そうつまりシティーボーイであると認識していた。

テレワークという言葉が定着した今は働く場所は問わないらしい。
現在商社に身を置く私としても、これは十分に感じている。
環境が整っていれば働く場所などどこでもよい。
一理認める。

東京という街であればどこでも仕事はできる。
家でももちろんできるし、会社でもできる。徒歩2分のカフェでもできるし、カラオケルームもコワーキングスペースも使った。
PCの充電が持つなら車でもできる。新幹線の移動中でも会議ができるぐらいに環境は整ってきている。

そう、シティーならば。
そう、シティーならば電源のあるカフェなどそこらにある。
そう、シティーならばカーシェアなんぞそこらにあるので移動手段に困らない。

私の実家に近くに新しくできた徒歩10分のスタバには電源がない。
カーシェアまでも徒歩20分かかる。
さらに最寄り駅までは徒歩5分だが、15分に1本しか通らない。
その他の沿線の最寄り駅は徒歩20分かかる。
大学時代名古屋駅に自転車で通っていた。
それは徒歩20分かけて最寄り駅前まで行き、電車に乗るか家から自転車で行くかを天秤にかけた結果である。
この街はシティーなのだろうか。いやシティーではない。
この街にシティーはあるのだろうか、いやこの街には。。。

この方の短編小説がすごく好きです。
田舎からの都会に憧れていたのだと思う。今も。

原田マハにハマりました。
二週間で読まなくなりました。
今まで映画が娯楽の頂上と思ってましたが、そんなことはないです。
映画は情報量が多すぎますが、小説は情報が少ないのでそれがいいです。 

宇多田ヒカルのBADモードのアナログ買いました。
めちゃくちゃいいです。 

ラヴィット!を毎日見る生活をしてます。
多分疲れてます。
朝から笑えるのでおすすめです。

サウナにすっかりハマってます。

映画を見て無さすぎてアマプラを解約しました。 

WETLEGの来日当たりました。
それまでは東京にいようと思います。

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