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コロナ禍と写真のテーマについて~中平卓馬の写真論

以前書いた中平卓馬の写真表現についての記事、こんなにマニアックな内容なのに一定数のマニアックな方からの評判が良いので喜んでいる。

コロナ禍、写真愛好者としては非常に辛い非日常がもはや日常と化した今、むしろ写真に対して感情を抜きにした論理的な姿勢で対峙している。

なぜなら、写真が撮れないからだ。

しかし、ネット上では膨大な写真がアップロードされている。

僕は撮れないのに・・・だ。


これは写真のテーマにおける土地の縛りについての鬱屈した感情が、逆説的な冷静さを与えてくれている。

僕はド田舎在住であり、コロナ禍による社会的なダメージが皆無なところに住んでいる。

わずか数人の発症者が出た!というニュースで大騒ぎするような、人口の希薄な土地である。なので、基本的に近所で写真を撮るために出歩くことに抵抗はない。

が、しかしである。

ド田舎という被写体テーマは、その写真の被写体というテーマの分節において、非常に狭い範囲のテーマ性しか持っていない。

基本的に自然、しかしその自然もどこにでもある里山、もしくは自然に駆逐された廃村程度。

人物は撮れない。ストリートスナップしようにも人間が歩いていないのだから。

そして都会には遊びに行けず、著名な観光スポットや大自然にはコロナにより移動を制限されている。

なんせ、コロナ禍の被害が少ない地域とは、内部の人間が持ち込まない限り平和なのだから。


この鬱屈した写真に対する感情は、ネット上で流れ行く写真の激流を眺める際に、『写真のテーマ』という分節の欺瞞性を炙り出す負の感情へと転化するのは当然の帰結である。

そこで中平卓馬の著作をもう一度手に取るのであった。

彼はこの写真のテーマの分節を破壊することで、全体性の中の虚無に陥った写真家であるからだ。

写真のテーマとは、例えばポートレート、スナップ、風景写真などなど大きなテーマがあり、そこから枝分かれするように小さなテーマへと分節を繰り返していく。

これは非常に歴史的な重みを持つため、誰しもがこの分節に異を唱えることはない。かく言う僕もそうだった。

なんせカメラ自体、テーマに合わせて作られていたりする。RICOH GRはストリートスナップ向けのカメラとして存在している。もちろん好きに使って良いのだが、GRを作った人も買う人もこの分節の狭間で揺れ動いていたのは確かだろう。

このテーマは時代性も持つ。Provoke(プロヴォーク)でアレブレボケを確立し時代性を獲得した中平卓馬や森山大道のように。今、アレブレボケの手法を取ると「ああ、あの森山大道の」と言われてしまう。

この時代性の潮流に乗ることは、ただちに写真家としての声望と金銭的な成功を獲得できるのである。

が、この時代性をすぐさま否定したのが中平卓馬であった。

彼は自分の反体制的な手法が、消費社会に取り込まれていくさまに「嘔吐」したのだ。

そして時代性を超えて、写真のテーマというわかりやすい分節という空気すら否定し、たどりついたのが植物図鑑であったわけだ。


コロナ禍で土地に縛られることで、この『写真のテーマ』がより如実に僕を苦しめたのは、中平卓馬のようなイデオロギー的な振る舞いではないが、しかし似たような感情は持ち得たように思う。

撮りたいテーマが撮れないという現状が、皮肉にもテーマに縛られている不自由な写真という媒体に気付かせてくれたわけだ。

いや、もともと気付いていたかもしれない。テーマのために、彼の地に出向いていたのだから。テーマのために、カメラやレンズを選んでいたのだから。


もちろんこの『写真のテーマ』を否定しているわけではない。

このテーマ性があるからこそ、「写真」が明瞭になり、間口を広げてくれているという効能は確かにある。単なる記録ではない趣味や芸術としての写真に至る道が、きれいに整備されているからこそ、写真を愛する人々がこれだけ大勢存在するのだから。

だが、このインフラ整備を過剰と取り、なおかつ官僚的で封建主義的な鼻につく存在として敵視する視点というのももちろんある。

現代アート的な逆張りではなく、単純に持って生まれた反体制的因子がそうさせるのだ。

このインフラを最大限利用することが、現在の写真界のルールになっているし、もちろん商業的な価値観の規範となっている。


僕のコロナ禍で感じた写真のテーマという分節による不自由感というのは、移動の制限による不自由感ではなく、テーマにとらわれている束縛感に気付いたという点である。

そこには分節の否定=全体性の存在の否定=虚無という中平卓馬に至る系譜が見え隠れする。

我々は言葉があるから果物としての林檎と蜜柑を区別できるが、この全てを否定するとそこには自己の存在否定、この世のすべては夢の世界かもしれないというマトリックス世界観の住人になってしまうのである。

この分節とは言葉であり、意味である。

有名な話だが、フランス語には蝶も蛾も「パピヨン (papillon)」としか表現されない。なので、日本人のように蝶はきれいで蛾は気持ち悪いという感情は希薄になっている。逆に英語では、牛や鰐の呼び名が日本語よりたくさんある。

この誰が決めたかもよくわからないテーマという分節を突き詰めると、ほとんどその意味は無きに等しいのである。

よって写真のテーマとは、利便性のためにある。そしてこの利便性のための分節を全否定すると、それは監視カメラになる。もしくは植物図鑑?Google Map?


この拘束感に対してどういうスタンスを取るか?これがこれからの写真界の主要な問題になると個人的には思っている。

分節と利便性、カテゴライズされた官僚的な写真というテーマは、その極致に達してしまったからだ。

分節と利便性を突き詰めた結果、スマホの台頭や、Photoshopによる高度な編集、そして8Kフォトのような撮影行為の否定にまで到達した。

この分節の極致は、もはや分裂しすぎて個としての全体もアイデンティティもわからなくなってしまった哀れなアメーバのようだ。

もはやすることがない。これが写真の問題である。

すべては模倣というカテゴリーに押し込まれ、編集や人工知能により主体性が無感覚となり、最終的には情報の素材でしかなくなるだろう。

ここで中平卓馬の行動を思い出してみる。

彼は分節を否定し、逆のベクトルへ止揚していった。そこには結局、分節の極致と同類の絶望があったわけだが、主体性を最後まで保持していたのは彼の最大の功績だろう。

この主体的な行動という挑戦は、現代の圧倒的な利便化と分節化の波に押し込まれていく我々に対するアンチテーゼとなっている。

写真を撮るのも喧伝するのも便利になった有り難い時代とは、逆にいえば衛生管理された下水処理場なのだから。



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