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中判フィルムカメラで、「ただ好きなものを撮る」という贅沢

「中判フィルムカメラでただ好きなものを撮る」というのは、現代においてかなり贅沢なんじゃないかと思っている。

もちろん経済的なコストが庶民向けではないことは大前提として、1フィルム10枚の濃厚な撮影行為は、これだけ便利で高速な世の中ではなかなか味わえない一瞬である。


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ブナの森が大好きだ。

この枯れた木も。プラウベルマキナ67の換算40mmちょいという良い意味で中途半端なレンズで撮るには、けっこう厳しい姿勢での撮影となった。

でもこの撮れ高の立体感を見たら、自己満足ゲージが一瞬で弾け飛ぶね。


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開放で撮ってみる。

6×7のフォーマットは、慣れたらすごく風景に合っているんじゃないかと思うようになった。

長辺が広すぎず狭すぎない、それでいて主題は明確、なぜ風景写真家が6×7を使うのがわかってきた。


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ブナの大木のマッチョな生命感、このマイナーな嗜好も満足させてくれる写真。

末端の細い枝も写し取っている。白潰れさせない。これぞ中判フィルム。


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光が良い感じだと、枯れ木をモデルにポートレートしたかのような写り。


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デジタル的な高画質ではないが、立体感や緻密な描写がグッと来る。

これはフィルムに散りばめられた銀の粒子のおかげだとか。フィルムで撮られた写真とデジタルカメラで撮られた写真では、脳の感覚入力が違うらしい。

この言葉では説明できない感じが、いわゆるフィルムの良さってやつです。


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バスでは有りませんよ。

ド田舎ではスタンダードな風景。


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家族を撮る。


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動きモノは緊張します。

庶民は中判フィルムでのミスが許されませんから(笑)


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けっこう人工物も良いですね。


中判フィルムカメラでは、一枚一枚に全身全霊を込めて撮ります。

シャッターボタンを押す指は震えます。

やっぱり異常に金がかかるから(ざっと一枚200円くらい)?

それもありますが、アナログなカメラと希少価値の上がったフィルムの組み合わせは、注意散漫な僕ですら集中させてくれます。

中判フィルムカメラで撮った写真は、どこでどう撮ったかの記憶が明確に残ります。

それくらい意識して撮っています。だからこそ、なぜそれを撮ったのかという意識が重要です。

この「意識を意識する」感覚って、現代社会で普通に暮らしているとなかなか無いんですよね。

電子レンジを使う時に、「今どれくらい温まったのか?」「なぜ温まるのか?」とか考えませんよね。

現代社会の生活は、行動をいちいち意識化するプロセスを省略してくれています。おかげで便利この上ない生活ですが、そこには無意識に落とし込まれた意識の残骸が転がっています。

禅やマインドフルネスなんかも「今、この時」を重視しますが、フィルムカメラは逆説的に「今、この時」を明確に感じさせてくれるツールとなっているように思います。

現代人は主体性を喪失させられた空間でプカプカ流されているようなものなので、あえてフィルムカメラを楽しんでいる人というのはそういった「今、この時」という感覚が好きなのかもしれません。

あえて不便でコストと時間が無駄にかかるフィルムカメラが細々と生き長らえているのは、そういう人間の面倒くさい性質のおかげかもしれません。


登山でも撮ってみました。

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