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アイディア集~『金閣寺』と『源氏物語』、小川洋子作品、中上健次とアイドルと生命力、の3本立て

今日は自分の考えを気の赴くままに綴ってみたい。

※注意※
① 普段よりも雑然とした記事になるかもしれない。
② 話題も不連続に移っていく。

よって、それらの点をご容赦いただきたい。ともあれ、この記事が読者にとっての何かしらのヒントとなれば幸いである。

〈おしながき〉
1.三島由紀夫『金閣寺』と紫式部『源氏物語』「桐壷」の共通点
2.小川洋子『人質の朗読会』の読み方が変質してしまった話
3.我々は生命力を求めている!?~アイドル文化と中上文学の再ブーム

1.『金閣寺』と『源氏物語』

三島由紀夫『金閣寺』と紫式部『源氏物語』の出だしには共通点がある、という話。父親からそれぞれ(まだ見ぬ金閣/亡き母・桐壷)について語られる。その点が似通っている。

『金閣寺』と『源氏物語』の出だしには、重要そうな共通点があった。どちらも、物語の冒頭で父親から金閣寺/母親の話を聴かされる。これは単なる偶然かもしれない。正直に言って、これ以上の考察が進まないのがもどかしい。

しかし、会ったことのない母親・桐壷の姿を偲ぶ光源氏の姿と、実物を見るずっと前から想像の金閣を愛ででやまない溝口の姿とは、重なる部分があるように思う。それこそ、溝口(『金閣寺』の主人公)にとって、金閣は母親代わりだったのかもしれない。そんな風に考えてみた。

2.小川洋子作品について

小川洋子作品に感じた懐かしさと、『人質の朗読会』を読んだ際に感じた疑問について。私はこの作品を素直に受け止められなかったので、その詳細を語りたい。

小川洋子は(ハンナ・アーレント流にう)「仕事」をする人のスケッチを描いているのではないか。そして、我々読者は作中人物にそういった「懐かしさ」を感じているのではないか。以前にそんな話をした。

特に『ブラフマンの埋葬』という小説には、上記の良さ(懐かしさ)がよく現れている。ブラフマンと名付けられた猫の生育記録を軸に物語が展開していくのだが、合間に挟まれる人々(職人)の描写が素敵だった。小川洋子作品を最初に読む人に対して、『ブラフマンの埋葬』を薦める位には。

一方で『人質の朗読会』にはそこまで惹かれなかった。「誘拐された人質たちが自身の体験をもとに文章を書き、それを朗読する」という旨の小説である。

だが、根本的な設定においてリアリティが欠けているように感じた。どうしても犯人側が朗読会の開催を許さないだろう。そう直感的に思った。人質がそんな突飛な行動をし始めたら、犯人グループは妨害に走りたくなるだろう。そんな風に疑いたくはならないだろうか。

ただし、『人質の朗読会』という小説自体は、強制収容所でのエピソードに取材しているのだろうとも推察される。実際に強制収容所で似たような状況があったのだろう。つまり、その点ではリアルなのだろう。(※しかしながら、小川洋子作品(エッセイ等も含む)を全て調査しているわけではないので、正確なことは言えない。機会があれば調査してみたい。)

では、なぜ読者である私はリアリティを感じなかったのだろうか? それは時代のせいかもしれない。メディアが発達した現代において、物語の無力化はたやすい。検閲によって物語自体を抹消することもできるし、物語を別の物語で希釈することも可能だ。作中の朗読会も”無かったこと”にできたかもしれない。そのような点から、物語の無力感をかぎとり、本作のリアリティを疑いたくなってしまったのかもしれない。

話をまとめよう。時代によって、読者の価値観も変質してしまうのだ。そう気づいたときに、少しばかり寂しさを覚えた。

3.中上健次、アイドル、生命力

生命力の枯渇が、アイドル文化の隆盛および中上文学への再注目に繋がっているのではないか、という話。やはり『推し、燃ゆ』はすごい。

『推し、燃ゆ』のおかげか、中上健次に再びスポットライトが当てられるようになった。個人的には嬉しいことである。

が、同時に危機感も覚えてしまう。【中上作品のような生命力あふれる小説が求められるようになった】ということは、【それだけ時代の生命力が枯渇しているのではないか?】、と捉えたくなってしまうからだ。

ところで、生命力の枯渇はアイドル文化の隆盛にも繋がっているように思える。ファンはアイドルに生命力を求めているのかもしれない。様々な人間から創り上げられた一人分の偶像から生命力を汲み取ろうと、ファンは必死になっているのかもしれない。ファンは”推す”ことによって、生命力の回復を試みるのだ。

もちろん、アイドルを応援する行為に問題はない。消耗した生命力を回復するのは当然のことだ。むしろ、問題は生命力を消耗せざるを得ない背景にある。そして現代は生命力の枯渇が激しくなっているように見える。その「生命力の枯渇」が、一方ではアイドル文化の隆盛として、もう一方では中上文学の再注目として、表出しているように映る。

宇佐見りん『推し、燃ゆ』は、そういった「生命力の枯渇した時代」を照らし出しているのかもしれない。少なくとも「中上健次」という小説家と「アイドル」という単語の接点になっていることには違いない。(そして、その背景に【生命力の枯渇】が関連しているのだろう。)やはり『推し、燃ゆ』はすごい!、と私は思う。

最後に

今までの話を精錬してみたところで何が生じるかはわからない。刀になるか、はたまた鉄くずか? が、何かしらのヒントになれば幸いである。

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