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📖梶井基次郎『檸檬』を読む🍋

※※ヘッド画像は happea-nyanko さんより。

 みんな大好き檸檬爆弾。今日は梶井基次郎『檸檬』を読んでいこう。今回もあらすじは省略する。谷崎潤一郎『刺青』と同様に、かなりコンパクトな短編であるからだ。(しかしその内容は強烈だ!)

 青空文庫のリンクを貼っておく。ぜひご一読を!

🍋「えたいの知れない不吉な塊」は一旦置いておこう

 この作品は教科書でもよく取り上げられている。そのせいか、みんな真面目に読みすぎだ。一文目から真面目に解釈しようとしてしまう。そして「えたいの知れない不吉な塊」を考察しだす。

 しかし、そういうのは一旦置いておこう。「えたいの知れない不吉な塊」と檸檬に気を取られていると、他の部分が見えなくなってしまう。

🍋聴覚の喪失(あるいは黙殺?)

 この作品では、聴覚に関わる描写が欠けている。わざとやっている。まずはこの文章から引用しよう。

以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。

 音楽、詩、蓄音機、すべて音に関わるものである。主人公はこれらの娯楽が嫌になってしまった。ここから聴覚の描写は一切なくなる。主人公の心の声は残っているものの、それ以外の音、外界の音は無くなってしまうのだ

 この聴覚の喪失が、『檸檬』の作品世界を幻想的なものにしている。現実世界の法則を全く破っていないのに、現実世界から遊離した気分にさせる。

*例外的に、音楽を用いた比喩はあった。

何か華やかな美しい音楽の快速調(アッレグロ)の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。

 ただし、「美しい音楽の快速調(アレッグロ)の流れが、……凝り固まった」とある。つまり音楽は止まってしまったのだ。こうして主人公の中で音は黙殺されるのである。

🍋見すぼらしくて美しいもの

 何故なぜだかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。

 主人公は「見すぼらしくて美しいもの」に惹きつけられる。生と死が両立し、調和した光景に美を見出すのだ。その例を挙げておく。

風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗(のぞ)いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕(むしば)んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀(どべい)が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵(ひまわり)があったりカンナが咲いていたりする。

 主人公は肺尖カタルを患っており、活気の溢れる場所にはついていけない。身体的にも精神的にも疲労してしまう。その一方で、主人公は生命力を渇望している。対立した感情の並立が、この描写から読み取れる。

 くたびれた街並みに安堵する一方で、汚い洗濯物の生活感や、向日葵やカンナといった植物の生命力に目が行ってしまうのだ。

🍋主人公の好きなもの

 主人公は、廃墟になりかけた場所に対して親しみを覚えることを語ってきた。そんな主人公はさらに、自分の好きなものを列挙し始める。第一に安静、第二に花火、第三にガラス細工。どうやらこれが好きなものらしい。

 主人公が安静を欲するのは当然である。たぶん軽い結核を患っているのだから。ただし、主人公は京都から逃れたいとも言っている。長崎や仙台や、とにかく京都からどこか遠いところへ行きたがっている。京都にいながら、自分がそのような場所を練り歩いているという妄想をするぐらいに。

 また主人公は花火を好いている。夜空に咲く炎色反応の彩り豊かな火花そのものも、燃やす前の持ち手の(安っぽい絵具で塗られた)デザインも両方好きなのだと主張する。ここにも主人公の美的感覚が表れている。花火の美しい部分と見すぼらしい部分とを両方挙げ、褒め称えているのだ。

 最後にガラス細工。びいどろ、おはじき、南京玉。主人公はこれらを味わう。舌で味わう。

またそれを嘗(な)めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。あのびいどろの味ほど幽(かす)かな涼しい味があるものか。

 目で愛でない。舌で愛でる。ここで味覚の描写が出てくるのだ。

 このへんの描写は、稚児が好きなものを大人に自慢しているようで、かわいらしさがある。しかし、その筆致は円熟している。こうしてみると幼子の主人公と大人である主人公とが同時に喋っているように思える。様々な年齢の主人公の声が重なり合っているような語りなのだ。

🍋好きだったもの

 主人公には好きだったものがあった。今となっては、好きなものではないらしい。その一例として、丸善を挙げている。

しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。

 かさむ書籍代、自分が金を借りた学生への後ろめたさ、金を持っていかれる勘定台。貧窮した主人公の詰まる心情が窺える。また、主人公は下宿を転々としている。居候の身なのだ。

🍋聴覚以外の描写

 聴覚以外の描写は本当に多種多様である。檸檬の冷たさや匂いや重さが描写されている。

 その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖(はいせん)を悪くしていていつも身体に熱が出た。……(中略)……握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。

 肺尖カタルに由来する熱が、檸檬の冷たさを引き立てている。これが爽快感に結びついていくのだ。

私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅(か)いでみた。……(中略)……そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。

 檸檬の爽やかな匂いを嗅いで、身体的にどのような変化があったのかを描写している。決して檸檬の爽やかな匂いそのものを話題にしないのだ。梶井基次郎の描写には、このような一捻りがあって面白い。

――つまりはこの重さなんだな。――
 その重さこそ常(つね)づね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心(かいぎゃくしん)からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。

 さらに主人公は檸檬の重さについて触れる。決して重くはないのだが、掌で存在を感知できる重さを上記のように表現しているのだ。

🍋共感覚的な描写

見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。

 擬音語(聴覚)を用いた視覚の描写である。この描写のおかげで、小説全体に聴覚的な描写が無くなっているということに気づかない。たいへん巧みな描写である。

🍋さいごに

 この小説は、誤解を恐れずにまとめてしまえば、現実逃避の小説である。病苦や貧困や熱による頭のもやが、複雑な相互作用を起こして「えたいの知れない不吉な塊」を構成している(と私は解釈している)。主人公はそこから逃れようとしているのだ。

 たぶん主人公の聴覚的な描写が欠けているのもそのせいである。他人の声を聞きたくないと無意識に思っているのだ。軽やかに檸檬爆弾を仕掛ける主人公の裏には、このような暗さが潜んでいるのだろう。

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