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Expo'70

 2019年3月9日発売の「JA(THE JAPAN ARCHITECT)」113号は日本万国博覧会、通称大阪万博が開催された1970年5月号の「新建築」と同年5-6月号英文版「JA」を再録している。

 冒頭の丹下健三氏と川添登氏の対談が興味深い。

 丹下は言わずと知れた日本建築界の巨人である。広島ピースセンター、代々木体育館、東京カテドラル聖マリア大聖堂など、日本近代建築の名作を連投し続けた。

 川添は「新建築」編集長を務めたこちらも日本近代建築史を代表する建築評論家で、いわゆるメタボリズムのメンバーの一人である。

 二人の対談は川添が聞き手となりマスタープランの設計とプロデューサーを担った丹下の万博への考えを引き出すかたちで行われている。あくまで具体的な発言しかしない丹下に建築家としての知性を感じる。

 高度経済成長を終えた日本が1964年の東京オリンピックから1970年の万博へ向かうその有様が建築を通して赤裸々に語られている。

 まず丹下は行政のあり方とデザイナーとしての建築家のあり方において、当初は委員会制からスタートした組織委員会をプロデューサー制に移行し、自らがプロデューサーとして参画したことへの意義と課題を評価する。一次案から三次案までの行程の中で抽象的政治の世界から具体的装置としての設計図を形にしてゆく難しさと反省が語られているのが生々しい。

 丹下はマスタープランにおけるソフトウェアのあり方について語っている。万博への来場者を6、7000万人と見積もり、一日あたり50万人の都市がそこに出現すると考え、新しい都市のインフラストラクチャーとして万博をシミュレートしている点が興味深い。「お祭り広場」に関しても当時の若者文化、コミュニケーション文化になぞらえて、自然発生的なコミュニケーションの発生を期待した空間設計を意図していたことを読むと、現在のソーシャルネットワーク的コミュニケーションのひな形のようなものがすでにそこに存在していたことが分かる。逆にいえば、いま現在、集積回路の小型化とネットワークインフラストラクチャーの充実によってもたらされている情報共有技術は1970年の「お祭り広場」から思想は変わってないことを実感する。丹下の先見の明を感じる。

 また、お祭り広場の大屋根、これは、記憶に新しい関根光才監督の「太陽の塔」でも印象深い巨大トラス構造体だが、じつは構造体を意識させないような、雲のようなデザインをイメージしていたことも初めて知った。当時の構造技術の限界だったのだろう。巨大な屋根を岡本太郎氏の縄文的オブジェが破ったことばかりが後年フィーチャーされる結果になってしまったが、その発想の根本は構造物(建築)の「メディア」化であることが明確に発言されていて面白い。こちらは構造体を自由にしようと試みた伊東豊雄氏の「せんだいメディアテーク(2000年)」を彷彿せざるをえない。その後の建築の向かった方向を考えれば現在の建築デザインの潮流に至る金字塔であると思う。

 ちなみにそれぞれのテーマ館のプランや設計思想の再録も簡潔に網羅されているのも良い。特に「お祭り広場」を担当した磯崎新氏の水滴を用いたグラフィックプレゼンテーションは秀逸だ。

 二人の短い対談はきわめて現在と同時代性を持ったプランであることが伝わる対談であると同時に、現在の思想そのものが1970年に丹下が語っていた状況とあまりに変わっていないことに驚きを覚える。

 丹下は万博の跡地は新たな実験都市としての可能性を考えていたようだが、実際は何もない公園になってしまった。もったいない。まるでその後の日本のビジョンのようだ。何も残らなかった。

 だから、私は惹かれるのかもしれない。いまだに1970年のビジョンに。

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