教育におけるデータやエビデンスについての雑感

 最近、Twitterの教育・学校界隈で、○○メソッドで有名なある方が、科学的なエビデンスが乏しいことについて色々な方と揉めていて、私は静観の構えだったんだけど、この論争の外堀にある教育の学術研究がどのようなものかを発信するのもいいかなと思って筆を取ってみました。はじめに断っておきたいのは、私はこの件にはどちらの肩を持つ気もないし、この記事は教育におけるデータやエビデンスを取り扱うことの難しさやそれに固執することの危うさを示すものです。また、この記事自体は論文ではなく大雑把にまとめた雑感です。もし専門家の方の目に止まったとしても、私は研究者でもなんでもないので、その粗さや強引さには目をつぶってください。多少強引でも荒くても、一般の方々のデータやエビデンスについての見識が深まればと思い書いている次第です。

(1)なぜ日本では教育においてデータやエビデンスを取り入れるのが遅れているのか?
 表題の通り、なぜ日本では教育においてデータやエビデンスを取り入れるのが遅れているのか?この問いに取り組む前に、教育全体では守備範囲が広いため、より実践に近い教科教育の世界、特に私が専門にしている社会科教育の世界を想定してお話させて頂きます。
 結論を先取ると理由は大きく2つ。

①戦後の教育学部設立とそれに伴う研究室の創設の母体の多くが、高等師範学校+文学部系であったから

②教科教育自体の誕生が非常に政策的であり、学問としての安定に欠くため、その存立意義に研究が集中したから

 ①に関して言えば、例えば広島大学教育学部であれば、4つの高等師範学校と広島文理科大学が統合してできており、ここの哲学や歴史学、地理学などの教員がベースとして社会科の研究室が立ち上げられています。
 ②について。教科教育学という学問分野は戦後の教育改革の中で生まれてきました。これは各教科の教員を要請しないといけない状況のなかで、それを下支えする各教科の専門的な教育学問分野が必要となり、ある種政治が主導して各教科の研究室を立ち上げさせました。このような誕生のいきさつから、教科教育学はお上から降ってきた学問であり、必要性に乏しいとも批判されてきたし、特に東側の著名な学者さん中心に未だに軽視する風潮があります。そのため、教科教育学は、己の学問とはなんぞや、というのを常に探求してきました。そしてそれは、ベースとなる文学部チックな考え方である、哲学的な思案や外国論文・カリキュラムの分析などの比較研究が中心に進められました。
 このような背景から教科教育学全般に、

①子どもを対象とすること、
②実際に起こったことのデータや数字を分析すること

が欠落しがちでした。これがデータやエビデンスベースの話が日本の教育で縁遠くなっている一因であると思います。

(2)質的教育研究の先進地域アメリカの現状
 私が院生だった2010年前後、社会科教育学だけでなくいろいろな教科教育の間で研究方法論改革が進みました。この理由の1つが、教育研究の先進地域であるアメリカの質的研究が日本で注目され始めたことが挙げられます。この時の現場にいた私の感覚で言うと、以下の2つのことが言えます。

①質的研究は必ずしも明日使えるものは提供してくれない

②研究者と現場の先生の距離が遠い

③アメリカでは逆に日本のLesson Studyが注目されている

 ①について。子どもなり、教師なりを対象として、実際に起こったことをデータに取り、それを精緻に分析して理論化していく質的な研究がアメリカでは主流です。これらの研究は、緻密で納得感があるものばかりですが、必ずしも実践的な即物性がある結論や成果が得られているとは言えません。なぜなら、彼らは「この理論が正しい」といったスタンスで研究をするのではなく、できるだけありのままで写し取り、そこからわかることを記述しようというスタンスだからです。逆に言えば、そういう意図だから客観性の高い研究結果がでるわけです。彼らはダイレクトに実践を変えるために研究しているわけではなく、精緻な分析の結果でわかったことが広く長いスパンで教育に影響を与えるといいな思っているし、そういう禁欲的な態度こそが研究者の必須条件だと思っている節があります。
 ②について。上記の研究の傾向を反映して、アメリカでは研究者と教師の距離はかなり遠い。例えば日本だと、研究授業があれば大学の先生が指導助言に来たり、そのつながりで授業の相談をしたりしますが、これはアメリカなら考えられません。アメリカの研究者にとって教師は研究対象であり、一緒に授業を考えたりする関係はありえないと考えているようです。
 ③について。上記のアメリカの研究の現状を反映してか、アメリカでは逆に明日の授業に役立つものを、と考える日本の授業研究(Lesson study)が注目されています。
 上記のアメリカの現状から示唆されることは、データやエビデンスベースの研究だけでは、実は目の前の現場の教師や授業、なにより子どもには貢献できないということだと思います。より精緻なデータやエビデンスの議論には客観性が必要だし、データ収集やエビデンスを理論化するためには禁欲さも必要です。その意味で、現場にすぐに貢献できなのは必然だと考えられます。

(3)データやエビデンスの危うさ
 話を最初の炎上騒動に話を戻します。何度も繰り返しますが、私はこの件にはノータッチでいたい立場だし、データやエビデンスの議論以前に、やりとりや言い方の中で燃え上がった感があるので。ただ「エビデンスがない」っていう批判をする人に対して言いたのは、何でもかんでもエビデンスを取らないと動けないなら、教育に関することは何も動けなくなるよ、ということです。もちろん栄養学や医学的なことは別ですが、教育方法的なことに関してはそれは顕著で、使えるものは使ってみて、その場に合わなかったら使わないというのが現実的な気がします。例えば100マス計算についても、合う子や合わない子がいると思います。それをエビデンスがないと批判するのは簡単ですが、そこにどのような条件では効果的かを科学的に立証していくエビデンスを積み上げるには、多大な時間と人材が必要です。その研究結果を待ってから使い始めることは、現場の教師にとってもそうですし、何より目の前の子どもたちにとって有益だとは思えません。
 ある学者さんが、教育研究について、アメリカの研究はサイエンスであり、日本の研究はエンジニアリングだ、と言っています。両者の最大の違いは、前者はメカニズムがわかってないといけないけど、後者はわからなくていい、ということ。大切なのは、使えるものを作り出していくことだ、ということです。私は、教育については後者の立場でいいと思います。使えるものを作っていって、使える状況で使っていく。そしてそれが目の前の感動を生んだりして多少成功しても、盲信しない。なぜならエビデンスはないのだから。謙虚に、科学的ではないけど、こんな場合だと使いにくいらしい、こういう場合だとハマるよ、と互いに知見を寄せ合って、経験と勘でよい教育を子どもたちに届けることが一番求められていると思います。

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