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表現の自由原理主義(論理主義)~表現の自由入門~

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ゆっくりしていってね!!

いつからか忘れちゃったんだけど、私のことを「表現の自由原理主義」あるいは「表現の自由原理主義過激派」と呼ぶ人たちがいるのよね。

「表現の自由戦士」と同様、こういうのをレッテル貼りとして嫌う人もいるんだけど、ぶっちゃけ誰をどういう名称および条件で分類しても自由だし、私は「好きに呼んでいいわよ!」と許可しているのだわ。

とはいえ、上で挙げた3つの名称は、特に明確に定義されることもないまま使われているわね。実際のところ、「ある人の発言や主張が表現の自由を重んじ過ぎているように感じた時、その場のノリで投げつける悪口」にしかなってないのよね。

「表現の自由原理主義」という言葉を使う人のイメージは、人によって色々でしょう。だいたいこんなところかしら?

①表現の自由さえ守られれば、それ以外の対立するどんな権利も守る必要がない。
②表現者側の表現の自由を偏重していて、たとえば企業の利益や自由などを無視する。
③表現の自由には感情的な側面もあるにも関わらず、理屈ばかりで説明しようとする。

私の場合、最初は憲法学の教科書や裁判例から「表現の自由」についてお勉強していたのだけど、どうにも恣意的な線引きになっていたわ。なので、原理原則である法令に立ち返って論理的に考え、当面は『表現の自由』についてはこう考えざるを得ないという所に帰着したわ。

例えば、ラーメン屋でお金を払って、ラーメンを食べるとしましょう。あなたが麺から食べようとした時、ラーメン屋さんが「ちょっと待ってください。うちはスープから飲んでもらいたいんですよ!」と言い出したとするわ。

これについて、「いや俺の好きに食べさせてくれよ」「俺は金を払ったんだから自由に食べる権利がある」とか「いや、ラーメン屋の店主の考えも大事にした方がいいんじゃない?」「ラーメン屋にだって客を選ぶ権利がある」とか、色々と思うところはあるでしょう。

これについて、私なりの「正しいラーメンの食べ方」を披露することは出来るんだけど、それを言い合っていても問題は解決しないでしょう。

お互いの考えがぶつかった時、好き嫌いではない何らかの「共通する基準」に戻って落としどころを探すと、商法・民法のお話になるわ。詳細は省くけれど、「代金を払えば、注文したラーメンが食べられる」という契約に「食べ方の指示」が明確に含まれていなかったら、ラーメン屋さん側がおかしなことを主張していると判断できるわ。逆に、明確に含まれていて、お金を払う側も「はい。それでいいです」と承諾もしたのに、麺を先を食べるとお客さんの方がおかしいわ(この説明は分かりやすさを重視しているから、法的に正確な言葉は用いていないわ)。

「表現の自由」を認める範囲についても、この「ラーメンの食べ方の是非」と同じ議論が起きているわ。

だから、ラーメンの食べ方問題で法令に戻ったように、表現の自由問題でも法令に戻って整理しないと問題は解決しないと考えたのよ。

そして、その帰着したところに基づいて、「表現の自由」を擁護すると、どうもそれが過激な「原理主義」に見えるみたい。

おそらく多くの人にとって、「やっていい表現・やってはいけない(許されない)表現」の判別は、まず感情的な好き嫌いによって行われているのよ。これは初手としては仕方がないでしょう。

でも、「どの感情的な好き嫌いが正しいか?」を決定できる機関が存在しない以上、出来るのは単なる口喧嘩、異なる好き嫌いのぶつけ合いよね。フェミニストとアンチフェミニストの対立でも、一部は「お互いに好きなもの、嫌いなものが違う」というだけの話で延々と水掛け論をやってしまっているわ。

私は、プロゲーマー・たぬかなさんの暴言問題やAVスプラ、下着ユニバに関して「私の個人的な好き嫌い」は度外視して、ラーメン屋の話と同じく、「法令に基づいて彼らの表現に制約を設けることが論理的に正当化できるか?」と考え、「出来なかった」から表現者側を擁護したわ(AVスプラに関しては権利者が著作権侵害だと申し立てることは可能だから、全面的な擁護ではないけれど)。

また、ラーメン屋の話をもうちょっとすると、ラーメンの食べ方問題は、あくまでも「注文した客」と「提供した店主」との権利の争いよ。契約の当事者でもない第三者が勝手に「客が悪い」「店が悪い」とSNSで大騒ぎして正義執行するのは本来おかしいのよ。

これは昨今、よく取り沙汰される「ガイドライン違反ではないか」論法にも通じるわね。まず権限のない第三者が判断できることではないし、また当事者であっても、ラーメン屋さんがホームページにガイドラインを大きく掲載していたくらいではラーメン屋さんの言い分は通用しないわ。だってそのガイドラインは読まれていない可能性があるし、客側は自ら探して読む義務がないのだわ。お互いに契約を守らせたいのなら、確実にお互いの納得や合意形成が図られるように措置する必要があるわ。

下着ユニバに関しても、「USJのガイドライン違反だ」と第三者が騒いだけれど、第三者が騒いだのはもういったん措くとして、USJも直ちに「契約違反だ!」とは断定できないし、実際していないわ。双方が契約を履行し終わっているしね。

こうした泥仕合に判定を下せるようにしたいという問題意識から、私は法令の根拠がつくかつかないかで判断することにしているわ。そして、「この場合は根拠がつかない。よって、私はその表現の自由を擁護する」と記事にしていると、「私の線引きを破壊された」と感じた人たちから反発を受けて、「手嶋は原理主義者だ!」と言われたりする訳ね。

ただし、その「表現の自由原理主義」も、たぶんそう真剣に定義を考えてから「該当するかどうか」できっちり判断したのではなくて、初めに①~③で挙げたような漠然としたイメージに基づいているのだと思うわ。

私が採用している「表現の自由原理主義」(正確には、法令に基づいた論理主義)を定義して、その説明をやっちゃいましょう。

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