愛の正体、友愛、欲望

 私はかつてエセ仏教を信奉していた。そのことから、言葉を有耶無耶(うやむや=ありやなしや)にしてそれを「無分別智」「空諦」と称し、手前勝手なナーガールジュナごっこをしていたのだが、その次の局面に去来したのは「慈悲」における「大悲の精神」であった。すなわち、抜苦与楽と言い、他の苦しみを「なんとかしたい」という思いである。
 しかし、4月9日復活祭においてキリスト教の洗礼を受けるだけ受けてみたり、良き友人との交流だったり、或いはオキシトシンの分泌のためにマカを飲んだり、私が名付けた「存在母性論」の影響だったりで、早い話が潤沢な洗脳を施されてしまい、この数か月ですっかり慈悲の人間から愛の人間に改造されてしまった。そこで今回は愛の話をしたいと思う。


愛の正体

 愛について考えたければ、愛するということの事例を考えてみればいい。どのような時に自らの、或いは他者の愛情を感じるか。例えば、友人が悲しんでいる時に寄り添うのは愛だろうと思うし、貧しい子供たちの未来のために教育をというのも、事の賛否はともかくその「良心」は愛情であろう。すなわちこうした「事例で考える」態度から、愛についてその正体が帰結する。すなわち、愛とは生きんとする意志の拡大である。すなわち、いわゆる「エロース」の他者への拡大であり、どうにかして対象により善き生を、というものが愛の正体ということになる。ちなみに、「アガペー」=神の愛の基本は祝福であり、それは「産めよ増やせよ地に満ちよ」といった多産性が基本にある。また、「フィリア」にも当然この意味でのエロースは含まれている。そして、このことについては愛の宗教キリスト教が「永遠の生」を希求することにも端的に表れている。
 さて、こうすると批判したくなるのが癖というものである。
「では、タナトス的愛は存在しないのか?」。
 ここで考えられるのが、愛と慈悲の本質的差異である。愛は「より良くしたい」が基本であるが、慈悲は、苦しみにコミットして「なんとかしたい」という思いが基本なのである。この差は、生への執着の有無に関わるのだが、慈悲からは容易に「ポア」の思想が導出されうる。罪業や苦しみをなんとかするためなら殺したって構わないというのは、慈悲の思想から考えると普通ではないだろうか。もちろん初期仏教でブッダはそんなことは教えていないのだが。しかし複数名から聞くところによると、確かにチベット密教などは、場合によっては日本のカルト団体よりも危険性があるらしい。
参照:解脱と慈悲の相関性と際限なき愛の贈与
(※原始仏教聖典『スッタニパータ』中の、慈しみの章の引用あり。)

友愛について

 愛が人と人の一対一の対関係に適用されると、「二人」ということで、「」になる。だから仁には既に対幻想の原像のような含意がある。

具体的な一対一の関係
人間は、必ず誰かと具体的に接触するときは一対一である。たとえ集団と面会しても、必ずその瞬間瞬間はたった一人を対象として認識している。また、吉本は共同幻想が成立する最小単位は三人であると指摘している。逆に考えれば、二人とは、共同幻想が発生しない集団である。世間体や社会的モラルから比較的自由な他者との関係である。この場合は、異性間、親子間だけでなく、同性間でも、一対一となれば、対幻想の対象として成立する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E5%B9%BB%E6%83%B3
Wikipedia
 対幻想

 『孟子』で定式化されている五つの対関係、すなわち五倫は、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信からなるが、4つが明白に上下関係を前提しているのに対して、朋友の信だけは対等な対関係を基本としている。同性間の対幻想である。儒教ではそれでも、家族原理的な上下関係が基本である。しかし、そもそも『論語』の書き出しは

子曰。
「学而時習之。不亦説乎。
有朋自遠方来。不亦楽乎。
人不知而不慍。不亦君子乎。」

子曰く、
「学びて時に之を習ふ。亦説ばしからずや。
朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。
人知らずして慍みず、亦君子ならずや。」と。

であるし、先述した『孟子』は、

友也者、友其德也。

友なる者は、其の德を友とす。

と教えている。
 一方キリスト教においては、

イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

マタイによる福音書第12章46-49節

とあるように、実はイエスは家庭主義者ではない。更にイエスは

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

ヨハネによる福音書第15章12-13節

とまで言ったとされている。だから通常考えて、キリスト教をキリスト教たらしめ、そこに家庭原理を持ち込んだのはパウロであろうと思うし、重ねて言うがイエスは「青年の友」のような感度の持ち主であり、家庭主義者ではない。なお、ここで一見生きんとする意志を否定しているかのようにみえるがそうではない。というのも、隣人愛の原型は自分を殺しても隣人を生かすことだからである。

 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

ルカによる福音書第9章57-62節

 ここにおいて、人は神を友とすることが可能となった。しかし仮構された文化として考えても、イエスは本当に「神の子」だったのかどうか、疑問を持っている。むしろ私などは、イエスには宗教的天才であってほしい。或いはイエスが神の子ならば、私にも神の子である資格があるのではないか?

 儒教、キリスト教、と述べてきたが、なお仏教では、

三、犀の角
三五
 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
三六
 交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
三七
 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

『ブッダのことば-スッタニパータ-』中村元訳

とあるのが基本的態度であるが、しかし、

四五
 もしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。

同上

ともあるのである。しかし、ブッダに遡れるほどの初期仏教において、少なくとも友人の存在がきわめて重要視されていたことが伺える。帰結として言えることは、洋の東西を問わず友人の存在は大きいという事実である。恐らくこれは、親族関係等を除けば、直接的利害関係でない関係性がそう多くないということに繋がる話であると思う。実際に思い浮かべてみるといいが、友人ほど制度的でない関係性はあまり見当たらない。或いは交友関係に義務感があると萎えたものである。

 ところで老荘思想では『荘子』にこんな言葉がみられる。

且君子之交淡若水、小人之交甘若醴。君子淡以親、小人甘以絶。彼無故以合者、則無故以離。

君子の交わりは淡きこと水の若く、小人の交わりは甘きこと醴(れい)の若し。君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶つ。彼の故無くして以て合う者は、則ち故無くして以て離る。

君子の付き合いは水のように淡泊で、小人の付き合いは甘酒のように甘いものである。君子の付き合いは淡々だが飽きることなく親しいままだが、小人の付き合いは甘くて利を離れない故にやがてとだえてしまう。理由なしに結ばれたものは理由なしに離れ去るものである。

『荘子』

 このように事例を用いて精確に伝える教えを「知恵」と言う。しかしこうした知恵を見分けるには経験が必要であり、たいていそれが知恵だったと気づく時には全ては遅いのである。そこで、知恵は経験を通じて今後に活かすためのものだと考えるのである。しかし、敢えて反抗的なことを言うと、後悔しようがしまいが大甘な人生が一番よいのだと思うならば、それもまた一つの選択である。もっとも、親子にも夫婦にも距離感が大切とはされる。覚えておいてもらいたいのは、人生の大勢はほとんどの確率で成人前に決しているので、大人になって君子になろうとするには努力以上に僥倖を要する。例えば、人間関係のリソースを持たない者が友達を持つと調子に乗り出す場合が多い。恐らくそういうことを双方やりだしてもその関係はだめになるものである。しかし僥倖に対して網を張って捉える仕組みはあるものだ。それが自ら安らいでいて余裕があることである。もちろん己の才能に自信があるならば突き進んでもよいが、多くの場合うまくいくのは、希望あり、しかし求めすぎず、信頼あり、足るを知っている者である。突き進んでしまうところの高揚感は、全面解放しようとするのではなく昇華するように心がけるのである。

「仏教・科学・ロマン主義」としての哲学

 私は見出しのこれらの類型で欲望の全面解放をしようと自己形成に挑んで、なにひとつ物にできず見事に挫折した。いい青春だったと思う。悲しいかな私は、進学で上京してひょこっと頭を出しかけたが、既にその季節は過ぎ、制度的で、封建制の残滓のある、しかし近代産業文明で都市化した、孤独な、慎ましやかで慌ただしい極東の島国の社会の断片へと回収されかかっている。秩序、秩序、秩序…。そして競争。
 ただ諦めることはない。文章に信頼と希望を込めて、今回は〆る。

2023年11月30日


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