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『天気の子』からの神話物語の考察と主体の而立論

人間はしばしば自分の存在を圧殺するために、圧殺されることを知りながら、どうすることもできない必然に促されてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。

共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。

そして共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした。

吉本隆明『共同幻想論』序より

 わたしはこの度約3年ぶりに、新海誠のアニメ映画『天気の子』を視聴した。前回はコロナ禍の冬に観たような気がするが、そのさいに全く何も受け取れていなかったことがはっきりとわかった。当時は、わたしには文化という変数がなく、自動販売機の描写などに注目していたように思う。今回は、たいへん面白く視聴することができたが、それこそが実際にはある種の危険性を伴うものではないかという怪しみも持っている。今回は、神話と物語に関して、そのあたりの事情について書きたいと思う。

子の超出と肯定

 天気が「天の気分」であることは『天気の子』の途中に登場した占い師によって説明されていたことだが、確かに、中国思想に起源をもつ概念において、非常に様相を変転しやすい「天気」は「天の気」とするのが至当であるように、直感的には感じられる。わたしのこれまでの学習によると、「理」や「ロゴス」といった法や秩序は一般に男性原理とされ、「気」や「存在」といった物的な「活動態」に関しては女性原理とされることが多いようだ。一般的言説としては、「父」は「子」を超出させることを責務とする。一方で、「母」は「子」の存在を「あるがままに」肯定する。このところの事情に関しては、ユング派の河合隼雄による『母性社会日本の病理』に詳しい。
 わたしが15歳前後の頃に長崎に向かう車の中で母親から聞かされた話がある。The Beatlesのジョン・レノンがある展覧会に行った。オノ・ヨーコの展覧会だった。そこには天井に向かって梯子が設置してあり、そこに上るとその奥に向かって虫眼鏡が設置されている。ジョンがそこを覗くと、一言、「Yes」と書いてあった。ポール・マッカートニーとジョン・レノンは「Let it be」を世に送り、ビートルズは解散する…。
 しかし当然、「あるがままに」というのは「停止」ではありえず、例えば天気の子においては、最終盤のシーンでおばあさんが主人公の帆高に、かつて東京の大部分は海であって、それが自然と人工の両面によって変えられてきたが、(映画内で)再び海に沈んでいったのもまた成り行きだという趣旨のことを語る。ここが、大まかに言えば、中心的な西洋思想と民衆における東洋思想の分岐点である。西洋においては、その「成り行き」にも必ず唯一の神の導きと御計画がある。民衆の東洋においては、「自然」=おのずから然り、ということになる。但し、東洋においても国家的機構の成員やインテリゲンツィアにおいては比較的西洋寄りの父権主義の傾向になるようである。通常考えて、導かれるためには、精神を嚮導する共同性を、例えば書物を読みインストールする必要があると考えられる。それがかつての登竜門である科挙であったし、聖書の伝統を有するユダヤ社会やイスラームにおいては、師からの継承であった。
 だから、少し考えるとわかるように、自己は共同幻想による嚮導を受けて自己展開し、自己を超出させる。超出した自己において、そこで想起されるあらゆる過去の記憶は、まさにその想起のたびごとに書き換えられる。そうなると当然、表現としての言葉や芸術制作も変容を被るだろう。神話的なモチーフを多用するアニメ映画などは、基本的に共同の文化体系への参画から描かれている。そしてそこで使用される象徴は、つねに、複数個の象徴を別のところで「発見」することによって、同一の構築物を見出すことで、内在するところのものとなる。すなわち、順序としては、超出先の超越者が心的な内在へと降りてくるモデルである。これが「文化」の基本となる。しかし「象徴」は必ずしも人間の構築したものとは限らず、自然の構築した「象徴」と言いうるものはありふれているだろう。ここに注意が必要である。これは心理学で言うところの「刷り込み」に近い。母親の顔や声などの特徴を見分けられるのも「刷り込み」である。だから、なにげないものごとの中に「神の声」を「聞き分ける」のも、どだい聖書を読み込んでいたり、説教を繰り返し聞いていなければできないはずである。だから、主に何と接続して暮らすのか、というのは重要なことだが、肝心なのは、8時間の労働があっても、1時間の読書のほうがより経験の濃度が高い場合は普通に起こることという事態への感度である。映画の2時間がその後長くにわたって宿命的な作用を与え続けるということはよく報告されている。

シャーマニズムにおける能力主義と共同性

 『天気の子』においてヒロインの陽菜は「晴れ女」としての役割を与えられていた。「晴れ」というのは一つの鍵となる。

 わたしのかんがえでは、<巫女>は、共同幻想をじぶんの対なる幻想の対象にできるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が、巫女にとっては<性>的な対象なのだ。巫女にとって<性>行為の対象は、共同幻想が凝集された象徴物である。<神>でも<ひと>でも、<狐>とか<犬>のような動物でも、また<仏像>でも、ただ共同幻想の象徴という位相をもつかぎりは、巫女にとって<性>的な対象でありうるのだ。

吉本隆明『共同幻想論』「巫女論」より

 吉本隆明は『共同幻想論』において、単純な意味での性とは区別して「<性>的関係」を考察している。『天気の子』の作中では、「狐」が「晴れ」に、「龍」が「雨」に割り振られていた。
 『共同幻想論』では、<いづな使い>が示されている。すなわち、村落の人々の共同幻想、あるいは願望を一心に凝集する「憑依対象」として「狐」を用い、その狐を直接使う人が<いづな使い>である。この場合、例えば憑依対象は狐でなくともよいはずであるが、ともかく多神教的な世界観においてはさまざまな対象が設定される。一神教において、「畏れ」の憑依対象は一つである。共同性は神として生起し、現れ方としては例えば神の霊感を受けた人の言葉として出現する。吉本はその箇所、「巫覡論」において芥川龍之介の『歯車』を援用するが、そのことの読み込みには彼の『点鬼簿』が役立つだろう。

しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だった。僕や僕の姉などに画を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に画を描いてくれる。画は墨を使うばかりではない。僕の姉の水絵の具を行楽の子女の衣服だの草木の花だのになすってくれる。唯それ等の画中の人物はいずれも狐の顔をしていた。

芥川龍之介『点鬼簿』より

 また、物語論においてキツネを重点的に論じたものに、内山節の『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』がある。

晴明はいっときの人ではなかった。むしろ死後にさまざまな装飾を伴って、伝説化されていった。そして江戸時代に入ると、晴明がすぐれた能力をもっていたのは、晴明の母がキツネだったからだという話が民衆のなかに定着する。この伝説によれば、晴明の母は信太の森のキツネ、葛の葉である。母が詠んだ歌として、「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信太の森の 恨み葛の葉」という有名な歌までが生まれた。

内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』より

 ここで内山は、「朝廷の世界」は「天-王-臣-民」という父権的秩序があったが、民衆の世界の物語にはそぐわなかった、と語る。しかし、日本において本当に「朝廷の世界」に父権的な秩序があったのかは甚だ疑問である。
 ところで、恐らくイメージ領域の話として、このキツネに関する事情と、「晴明」という名前は対応している。農耕に関係する狐に共同幻想を凝集するさい、祈られていた内容はおそらく、集団を駆り出して田の仕事をする日に晴れてほしいということは大きかったと予想が立つ。もし、その日に雨でも降ればどうなっていたのだろうか…。
 人間が霊的なものの側を「降ろす」ものもあれば、人間が霊的なもののほうに上昇するグノーシスタイプの「脱魂型」もある。例えば、実在の晴明は明らかに「降ろす」人であったが、民間伝承のなかでしだいに「狐の子」に変容していった。「ヒミコ」は脱魂型ではなかったかと指摘されている。聞いた話で証拠は定かでないが、当時のシャーマン女性は、幼い頃から頭部を挟まれ、成長とともに頭蓋骨が変形し、変性意識状態になりやすく育てられていた、という話もある。わたしたちは、ともすれば家族システムや何らかの機構の中で、一人の女性や人物を、そうした役割として定立し、挟み込むようなかたちをとっていることはないだろうか。そしてそれは当人にとっても生き甲斐であるとともに生存のための強迫観念となる。
 狐と龍に関しては、狐元型が人の中で駆動するとき、その人は狐に敏感になり、龍元型が駆動するとそれに対応する自然現象に敏感になる、と考えてはどうか。

 シャーマニズムの能力主義においては、その人自体がなんらかの特殊性によって才能を帯びている。一方で、共同性を重視するほうでは、確かにその人の霊的才能は重要であるが、それよりも集団の個々が心を一つにして祈ること、それによる共同性の生起が問題になっている。しかし、西アジアの一神教にあっては、神はあくまでも唯一であり、しかも「超越的内在」にみられるように、「共同の神があくまでもわたしの神」であることが肝要な点である。神の共同体の内部で霊的抗争をなくし、平和が保たれる仕組みであろうと思われる。

 『天気の子』が「天-気」の「子」であることは指摘したが、儒教の開祖である孔子の思想は彼の母親から始まっている。すなわち、孔子の母は彼が17歳頃に亡くなっているとされるが、その母親は巫女であったらしい。そこから、彼の思想と祭礼へのこだわり、のちの孟子との接続点もみえてくると思う。孔子は三十歳を「而立」と回想した。例えば、産婆の子であったソクラテスが生涯を「産婆術」に費やしたように、また、マリア=ミリアム(「叛逆」)の子であったイエスが「反逆罪」で十字架の道行きに向かったように、こうした事態は通常卑近にも起こっているものである。『天気の子』においても、ヒロインの陽菜の「母親の形見が取れる」シーンなどは多く考察があるようである。ここですぐに「農耕文明の母系制」と言ってしまうと、そこで思索が打ち止めになってしまう。実際には、「形見が取れる」ことがあったとしても取り去りえないものについて考え、そこからの展開については各々の道行きとして、さまざまな対関係=カップリングを大切にしながら、自分で学び考えなければならないようなところが大きい。

 カール・グスタフ・ユングに以下のようなエピソードがある。

フロイトとユングの決別の場面がある。議論がかみ合わず、収集がつかないでいると、ユングがしばらく経ったら爆発音がしますよという。フロイトが怪訝そうに聞いている。とするとほどなく爆発音がしたのである。フロイトに驚きと困惑の入り混じった表情が浮かぶ。 決別の最終場面である。ごく常識的に解すれば、ユングは多数の人には聞こえない振動が聞こえていた可能性が高い。あるいはユングがこの予言によって著しい緊迫感を作り出し、 他の人には聞こえない音をフロイトに感知させたかもしれない。これも可能性が高い。

河本英夫「感覚の精神病理」より

 このことは、これまで明らかにしてきたような、ユングのような類の人物の「感覚過敏」によるものである可能性が高い。そして、これを敷衍すると、より長期的にもこうした「感覚過敏」は発動しうると考えられるのではないか。だから、案外「晴れ女/男」という事態も全くの荒唐無稽とは言えないように思う。すなわち、晴れを呼んでいるのではなく、晴れを言い当てるのである。しかし、それを個人的に使用する分にはよいが、共同性が絡むと「責任」問題に発展する。そこで、場合によっては「人柱」になるという事態も起こるだろう。或いは、過敏な人物に過度に負担を強いること自体が、その人物の「発病」を促進していることも確からしく思われる。すなわち、人を使って晴れさせることは、その人を「使い捨てカイロ」のようにしているところがないか、ということである。吉本によれば巫女は幻想の<家>を性関係の基盤にするのが巫女であるそうだが、その後に残るのは現実の基盤的な家における荒廃である。

近代的機構と神話的領域の対決と折り合い

 『天気の子』では、警察権力と「須賀さん」が象徴的に描かれている。ところでわたしの地元の町の、男たちの集う集会所の隣の神社は、天満宮で、「須賀さん」と呼ばれていた。「須賀」とは、天満宮で「天神」として、すなわち「学問の神様」=ロゴスの神、雷=霹靂の神などの性格を過剰代替されて祀られている「菅原道真」のスガのことである。「道」にして「真」である「天神」が「天拝山」で神を拝んでいたというのもあまりにも象徴的であるが、ともかくここでは「須賀さん」=「父」という抑さえがつく。そういえば、わたしの地元には、唐津天満宮の正月明けの祭りで「おんじゃおんじゃ」というものがあった。火をつけた大松明が男たちに担がれ天満宮の周囲を取り囲むように回る、そして、大松明は立てられ、火の中、勢いよく地面に倒される…。この「象徴崩壊」の元型は、有名なところでは諏訪神社の御柱祭に対応すると思う。
 『天気の子』における印象深い箇所として、主人公の帆高が、ヒロインに出会うべく須賀さんと警察に交互に銃口を向けるシーンがある。そこでは結局、須賀さんらが帆高に協力して警察を押し込めることになる。ここに、単純に「父」といえども、近代的機構と神話的領域の対決がみられる。帆高は、片手だけ手錠をはめられたかたちで「屋上の鳥居」へと向かう…。そうである、そもそも「ビル」の「屋上」に「鳥居」が設置されているのである。
 作中で帆高は"「見ないふり」"をする人々を糾弾していた。これは、新海誠による糾弾であると考えられる。合理化されシステムにされた近代的機構のその上に、間違いなく何らかの領域が聳え立っている。それは「超越的内在」の如く、最も身近で最も原初的であるがゆえにみえなくなってしまうある親しすぎる領域ではなかったか。
 …しかし作中ではその後、諸々の展開があり、帆高は保護観察処分になりしばらくは元いた地元の島で学校生活を送ることになる。

おわりに

 受動/能動だけでは事態を捉えられず、自動や被動なども変数として要請される。孔子の言う「耳順」とは被動性の典型であろう。こんにち、国家と神話の接続は課題であると思うが、しばらくの間それは直接行動の問題というよりも、各人が社会的参照を行いながら見つけていくそれぞれの道行きとなることを、覚悟して進まなければならない。

2024年7月11日

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