グリーフケアやグリーフサポートの成果(アウトカムってなに?

ここのところ、助成金申請書を書くサポートをしたことで、改めて、自分たちの事業やグリーフサポートの必要性を社会にどう伝えるのかという最も根本的なことに向き合うことになった。ということは、必然、最終的にグリーフケア・サポートの目指している成果ってなんなのかと考える。

遺族が課題を抱えたときに、世の中にグリーフケアやサポートが足りないから、その課題は困難なままなんですか?

といったような趣旨の疑問を、助成金申請先の相談で言われたという。

他の要素はもちろんあると思う。死別後、働けなくなって、経済的貧困の状況に陥ったとして、それはグリーフケアだけがそこを解決していけるわけではないし。でも、グリーフケアは、情報提供とノーマライゼーションからはじまるとイギリスで表現されているように、情報を知らないことによって

「自分だけがおかしくなった」

と思って相談できない状況にある人達は多い。例えば、死別によって、グリーフの影響から動けなくなったり、死にたくなったりすることさえ、「ノーマルなこと(=誰にでも起きる自然なこと)なんだ」と知っていたら、助けを求めたり、自分を責めたりしないですむかもしれない。自分一個人の問題だと思うから「自分がいけない」「自分が弱い」と思って状況を悪化させていくことは往々にしてあると思う。そこから、仕事ができなくなったり、経済的貧困(社会的資本も当然"貧困"状態になっている)につながっていくということはあるし、そんな遺児や、遺族の人たちと出会ってきたこともある。

なので、一つには、間違いなく「遺族がグリーフに関する正確な情報を知り、ノーマライゼーションできること」というのがあげられるだろう。でも、もっともっと、先にあるものは、遺族が自分の失ったものとのつながりを回復したり、また、なくしたことをその人なりに大切にできるようになることではないか。もちろん「つながりを回復する」必要はないと思っている関係もあると思う。なくしたことを思い出さないことで本当に自分自身が楽で、生きたい人生を生きれられるというのなら、それもひとつなのだろうと思う。それぞれのニーズがあるから。

今新たに取り組みはじめている事業の「評価」に関するミーティングを先日終えてみて、改めて「成果」というのをこちらが決める事自体にも、グリーフケアの矛盾(「主導権」は当事者にある)を感じる気もするが「願い」と言い換えるとすこし考えやすくなるだろうか。関わるからには、願いのようなものをこちらがもつことは自然なことやから。

社会における文脈で「成果」「効果」といった言葉が示すものは、時として支援/被支援のような関係性をくっきりさせすぎる気もしているが、そのあたりは、もうすこし探求していきたい。

リヴオンの新たな章のはじまりに想う。

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