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note10 伊邪那岐命が約束を破ったのはなぜ?

#16 伊邪那岐命が約束を破ったことについて解説と解釈



今回は、黄泉の国のお話しの中で、伊邪那美命が「絶対に見ないください」

と言ったにもかかわら、伊邪那岐命が伊邪那美命との約束を破ってしまうくだりについて解説と解釈をしてみます。

前回もお話ししましたが、
伊邪那美命は
黄泉の国まで迎えに来てくれた伊邪那岐命に対して
「黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、伊邪那岐命のいる現実の世界に戻ることができなくなってしまいました。しかし、いとしい私の夫が、わざわざ迎えに来てくれたのですから、なんとかして一緒に帰りたいと思います。しばらく黄泉の国の神と相談してみますので、その間私の姿を絶対にご覧にならないでください」
と言って、御殿の奥に行ってしまいます。
ですが、伊邪那岐命は約束を破り、御殿の中に入ってしまいます。

これと同じようなお話は、今後古事記の「山幸海幸彦」にも出てきます。また「鶴の恩返し」という昔話も同じような話しであることは皆さんもご存知かと思います。

「見ないで」と言われると見たくなるのが人間の心理と言われればそれまでですが。
まずは、この時の伊邪那岐命の状況をもっと詳細にイメージしてみます。

伊邪那岐命は最愛の妻伊邪那美命を亡くし、そのことをどうして受け入れてことができずに、この先に黄泉の国があると言われ黄泉比良坂(よもつひらさか)という長く暗い坂を降りて行きます。真っ暗な闇の中、壁にあたります。そこが黄泉の国の扉です。伊邪那岐命は大きな声で伊邪那美命を呼んだことでしょう。
すると壁の向こうから、懐かしい伊邪那美命の声がします。
ですが、伊邪那美命が言うには、
「私は、黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、帰れません。でもせっかくあなたが迎えに来てくれたのですから、これから黄泉の国の神様と話しをしてくるので、待っていてください。その間決して私を見ないでください」
と言ってどこかに行ってしまいます。

闇の中、伊邪那岐命は待ちます。
真の闇とは見えない聞こえない世界です。どれほどの時間が経ったかもわからないくらい、ただ待ちます。その時の伊邪那岐命の葛藤はどれほどだったでしょうか?
恐れ・焦り・不安、だんだん不満も感じ、やがて怒りが湧いてくるかもしれません。これが異心(ことごころ)です。でも、待とう。でも、恐れなどの異心が湧いてくる。でも待たなければ。この繰り返しを何度もして。
とうとう、伊邪那岐命の御心は異心でいっぱいになり、扉を開けて御殿の中に入ってしまうのです。

どんなに時間がかかってもどんな暗闇の中でも、伊邪那美命を信頼し、同時に異心に負けずに自分を信頼すること、これを選ぶ必要があるかは明白ですが、それがいかに難しいかと、ということも理解できます。

伊邪那岐命が扉を開けると恐ろしい事態が展開していきます。

伊邪那岐命は髪の毛につけていた櫛をとりその歯を一本折って、火を灯します。薄暗い灯りに灯された伊邪那美命の身体には、ウジ虫がたかり、頭・胸・腹・陰部そして手足には合計八種類の雷神(いかづきがみ)が居座ってゴロゴロと音をたてていました。
この変わり果てた伊邪那美命の姿は、伊邪那美命であると同時に伊邪那美命との約束を破って御殿の中に入った伊邪那岐命の御心の状態を比喩として語っているのではないでしょうか。伊邪那岐命が異心におおわれているから、ウジ虫や雷神に見えるのです。
その後も、伊邪那岐命には次々に禍い(わざわい)が生じ、その御心は異心に占領されそうになるのですが、「のぶどうの実」「たけのこ」「十つかの剣」」「桃の実」によって、その異心を祓って、祓って、祓って、ようやく我欲を去り、本来の清明な心に立ち返ったのです。

人は異心が湧く時はありますが、それに気づき、祓うことが大切なのかもしれません。
私たちは毎瞬毎瞬、感情や思考が湧いては消え、他のことを考え、時には妄想を繰り広げ、そこから感情が湧いて…この繰り返しです。特に異心から発する思考や感情・妄想はクセになりやすいものです。
その異心に気づき、祓うことがとても大切である、ということをこのくだりから解釈してみました。

神道においては、私たちは、明き(あかき)・清き(きよき)・直き(なおき)・誠心(まことこころ)を持って、日々過ごすことと言われています。
明るい心・清い心・素直な心、そういう誠心(本来の美しい心)を持って日々過ごしましょう、というのです。

これは異心を祓うひとつの方法でもあるように思います。
とは言え、繰り返しになりますが、異心が湧いた時に気づき祓うことも大切です。
こう考えると、人にとって気づくことがとても大切なことのようです。

そして、その気づきの連続の先に愛と調和の世界があるのかもしれません。

また、時間は幻想だとすれば、愛と調和の世界はいまここに在るとも言えます。

神道においては、いまここを中今(なかいま)と言います。

中今に心を向けて生きていくことが何より大切ということでしょうか。

今回はここまでです。

今回解釈したくだりは言霊の原理では、全く違う解釈になります。これについて、またあらためてお話しできればと思います。

いつもありがとうございます🌈

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