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唐桑町の舞根は、物凄い速さで復興を目指した集落だった

『おかえりモネ』を語っている中で、「森は海の恋人」で有名な、舞根湾のカキの養殖が紹介されていた。かつて集落があった場所には、今は誰も住んでいない。ススキの原と湿地が広がっているだけだ。そしてその上の高台に、4軒の新しい住宅が見える。ああ、この向こうに、新しい家並みがあるんだなと分かる。眺めも良さそうだ。

マップで見ると、なめらかにカーブする道の先に、これまた緩やかな弧を描いた道の両脇に、ほのぼのするような形で、新しい住居が立ち並んでいる。

今は、気仙沼市に属している唐桑町は、2006年3月までは独立した町だった。⭕️の付いたところ付近が舞根だが、見ての通り、気仙沼内湾に行くには、山を越えなければならない。この日はレンタカーで気仙沼内湾からやってきたが、15分はかかったと思う。唐桑の郵便局の辺りまでなら、5分なのに。

舞根湾からの眺めを見たかったので、湾の出口に正対する、真っ直ぐな岸壁まで降りて見た。私が立っていた位置では、湾の出口にある小さな半島が、ググッと突き出しているので、湾の外が見えない。まるで湖のような眺めだった。

そこで、犬の散歩中の男性に出会った。家が流され、今は私が見上げた高台に住んでいるとのことだった。立ち話でお話をさせて頂いたが、このコースを毎日、散歩してそうだ。

話をしていたのが、🟧の場所。ここから、黄色い○の場所がよく見える。ここを、ジョギングする人の姿がひとり、またひとり。誰が走ってるんですかと訊ねたら、ここ舞根の人だという。トンネルをくぐるのも気持ちがいいし、トンネルの西側も東側も、景色が最高だと言う。

だが、舞根の凄さを知ったのは、その後だった。

まず、9.9mの防潮堤が、どこにも無い。震災で甚大な被害があった地域は、どこへ行っても、真新しいコンクリートの防波堤と、港へ通じる大きな陸閘があった。でも舞根には見当たらない。

この景色を見ることができるのは、舞根の人たちの総意で県の決定を覆した結果、震災以前のように、海が見える海岸線を守ることができたと知った。地盤沈下もあり、沼のようになった土地についても、自然に任せている感じだ。

舞根を調べているうちに、一本の論文に出会った。

これによると、震災後の舞根の人たちの対応は、想像を絶する速さであったことが分かる。

震災直後の10日間で集団移転を決意

52世帯中44世帯の家屋が津波で流失した舞根(舞根第二 行政区)の人たちは、唐桑の小学校へ避難した。しかし、震災後10日目には、避難していた舞根の人たちは、舞根での集団移転の意思を固めていた。2週間を待たず、代表者が市役所を訪れ、どうすれば集団移転して舞根に戻れるか、相談に行ったという。

4月の終わりには、移転のための会を発足させ、慣れ親しんだ舞根の土地で、海の見える移転候補地を選び、地権者の貸与または売却の約束まで取り付けていた。

5月末には明確な意思表示と他県への視察

5月末には、気仙沼市長に対して「海が見える場所で住みたい」との意思を全員で共有し、9.9mの防潮堤建設に対して、全世帯が反対の署名をまとめている。代表者22名を新潟県長岡市に送り、同じような集落の集団移転の様子を視察している。

一年を経ずして予算の確保に成功

まだまだ、多くの地域で瓦礫の撤去が終わらない中、舞根は移転先の建設を始めようとした。そしてその後のモデルとなったと、新聞やメディアがこぞって報じているのを知った。しかも、低予算で。

舞根にあるカキの作業小屋は、昔ながらの海のそばにある。もちろん、地盤沈下したところは土を入れただろうけれど、かさ上げなどはしていないように見える。海に近い。『海と生きる』決意が、ジワっと腹に響いて来るような感じがした。

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