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少数者が溶け込める街に 意識の壁なくし自然体で

観音寺市で福祉事業を営む毛利公一さんは、障害者を含むマイノリティー(社会的少数派)の人たちが心地よく暮らせるまちづくりに挑んでいる。23歳の時、不慮の事故で首から下を動かせなくなった。身体の自由を失い、障害者に向けられる同情を含んだ視線に気付く。一方、留学で訪れた米国は自分が車いすに乗っていることを忘れるほど周囲の態度が自然だった。「障害者に抱くマイナスのイメージこそが障害者をつくる」。意識の壁を取り払い、誰もが自由に生き方を選べる社会の構築を目指す毛利さんに理想の街を聞いた。

▽日米の差

寺西 毛利さんは米国留学中の2004年、海の事故で大けがをし、眼球以外を動かせなくなった。自力で呼吸することさえ困難な状態からリハビリで呼吸と声を取り戻し、08年にNPO法人「ラーフ」(現、社会福祉法人ラーフ)を設立。経営者として4つの介護福祉事業所を運営するほか、コロナ禍の20年4月には、新会社「モーリス」を立ち上げ、福祉事業のコンサルティングも始めた。挑戦を続ける毛利さんにとって、いい街とは。

毛利 障害者などマイノリティーが当たり前の選択をできる街だ。マイノリティーとの触れ合いや感情を共有する機会が積み重なって、街はつくられる。04年に米国に渡った時、日本との違いに驚いた。障害者が街のカフェで談笑し、おしゃれや買い物を楽しんでいる。ごく自然に街に溶け込んで暮らす様子が印象的だった。一方、地元では当時、車いすの人を街で見かける機会すらほとんどなかった。観音寺市で事業を始めた08年、香川県の福祉は遅れているといううわさを聞いた。「それなら観音寺を日本一の福祉の街にしよう」と思った。今も変わらない原動力だ。ラーフでは、障害者の働く場や生活介護など、地域に足りない障害者の受け皿をつくっている。

寺西 ラーフは「laugh(笑い)」から名付けた。

毛利 米国でけがをした直後、楽観的で前向きな私も「時計の針が逆に回らないか」と願わずにいられなかった。救いだったのは、米国の集中治療室が24時間面会可能で、友人が訪れてくれたこと。声を出せない私にできるのは、笑顔でいることだけ。「笑顔でいたら、また来てくれるかな」。独りになる時間が何よりも嫌だった。笑顔は自分の気持ちを前向きにしてくれたし、友人は何度も来てくれた。

寺西 国内屈指の棒高跳びの選手だった。けがをする前、障害についてどう考えていたか。

毛利 正直に言うと、全く関心がなかった。自分には関係のない世界と捉え、障害者を「かわいそうな人」という目線で見ていた。23歳でけがをして、見える世界が変わった。「かわいそう」など、まわりの人たちが障害者に抱くマイナスのイメージこそが、障害者をつくるのだと気付いた。私は障害者になったが、跳び越えるバーが変わっただけ。今も挑戦を続けている。

寺西 福祉の役割をどう考えるか。

毛利 障害者などマイノリティーの社会参画を支える後方支援。福祉は、支援を受けていない人には実感しづらい。興味を持ってもらえる仕掛けが必要だ。14年に再度米国を訪れたが、障害者に向ける視線が日本と全く違い、自分が車いすであることを忘れるほど。目立ちたがりの私からすれば物足りなさもあったが(笑)、そこでは、私はスペシャル(特別)ではなくジェネラル(一般)。変ないたわりや気遣いが全くない。その地域では、1970年頃から「障害者を差別しない」という方針が示されていた。長年かけて障害を意識から取り払った場所では、福祉の支援を受けた障害者が積極的に活動している。それが街の価値にもなっている。街を変えるためのグランドビジョンは必要だ。

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取材の様子(写真左が毛利さん)

▽行動

寺西 ラーフが運営する4つの事業所は、障害者の働く場となっている。他にも、「ふれあい夜市」やファッションショーなどを手掛けてきた。

毛利 他分野とコラボし、福祉を前面に出さないイベントを開催してきた。2010年から続く「ふれあい夜市」の屋台では障害者が調理や接客をし、自然な交流が生まれている。これまで、福祉にスポーツ、文化、音楽などをかけ合わせてきた。参加者は年々増え、19年は約2千人。20年はYouTubeでの発信を始めた。地元企業の協賛と市の支援が主な資金源だが、近年はクラウドファンディングや屋台のブース料を運営費に充てるなど工夫を重ねている。

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ふれあい夜市での棒高跳びショー

寺西 ふれあい夜市を始めたきっかけは。

毛利 昭和時代、この地域では夏の毎週土曜日に「土曜夜市」が開かれていた。約60年続いたが、過疎化に伴いなくなってしまった。人であふれたアーケード街は撤去され、商店も消えた。当時の活気を取り戻したい一心で「ふれあい夜市」の事業計画を市長に持ち込んだ。市長に背中を押してもらい、トントン拍子に運んだ。大切なのは行動することだ。

寺西 障害者がモデルを務めるファッションショーを09年に始めた。

毛利 服装や髪形をおしゃれにすると、前向きな気持ちになり、外出したくなる。そのことを伝えたくて、ファッションショーを開いた。ファッションショーは形を変えながら「ガラスの靴プロジェクト」につながっている。障害者がウェディングドレスを着て、有明浜や一の宮公園で撮影した写真をアルバムに残す。障害者に限らずマイノリティーの人に体験してほしい。他地域でもやってほしいと反響があった。

ガラスの靴プロジェクト

ガラスの靴プロジェクトの撮影風景

▽差別に向き合う

寺西 自身の障害をどう捉えているか。

毛利 私の目線は常に前向き、上向きだ。つらいときや落ち込んだとき、目線は下を向く。首から下を動かすことが苦手な私、いくら首から下を見てもできない部分しか見えない。目線が前向きか上向きだと、首から上で何でもやろうとする私の良いところが見える。できないことを探すマイナスの目線より、できることを見つけるプラスの目線が必要だ。ピンチはチャンス。例えば、私は手足の感覚がなく体温調節が苦手なため、一年中睡眠に悩んでいる。この私の悩みを解決できたら、睡眠に悩む世界の人を救えるはず。障害がある私の身体は価値になる。

寺西 差別や偏見にどう向き合うか。

毛利 社会福祉士の有資格者として不適切な発言かもしれないが、差別は必ず起こるもの。差別の発生を予見し防止することは難しい。その前提に立ち、起こったときにどう対処できるかが重要だ。一人ひとりが見て見ぬふりをせず、それは違うと表明できるかどうかに懸かっている。皆さんが誰に対してもプラスの目線を持てたら、障害者という言葉は要らなくなる。

▽選択肢をつくる

寺西 成し遂げたいことは。

毛利 障害者に、衣食住そして働くことの選択肢をつくりたい。私がけがをしたことも、何らかの運命的な理由があると思っている。福祉の力で、障害者が住みたい街にしていく。モーリスでは、悩みを解決する商品やサービスを生み出すとともに、私の経験と経営手法を人に伝え、全国の福祉人材育成に貢献したい。まちづくりも人助けもビジネスもやっていきたい。欲張りで、人生の野望は尽きない。

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社会福祉法人ラーフが運営する施設リール

寺西 挑戦を続け、目標を実現するには。

毛利 目標や夢を語ることだ、言葉には力がある。自分で無理と決めつけると、できない理由を探し始める。誰と、何を、どうやればできるかを考え、行動して失敗を積み上げていく。すると、必ず突破口が開ける。信念を貫き、やり切れるかは自分次第。もちろん私も不安や恐怖を感じるし、新型コロナだって怖いが、決してできない理由にはしない。小さな一歩でいいから、できることを見つけて前に進む。壁を乗り越えたときには、大きな幸せや自信を得られる。けがをして、思い描く未来は突然変わることを実感した。病室で母に「自分は生きていて良かったのか」と聞いた。母は涙を流しながら「当たり前や」と言った。私が本気で生きようと決意した瞬間だ。私を打った大きな波が、本気で生きることを教えてくれた。

書籍

毛利さんの著書