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『わからないこと』への態度

こんばんは。寺戸慎也(てらどしんや)です。

いよいよゴールデンウィークも終了ですね。いつもなら仕事再開!となるところですが、何となくメリハリなく、曜日感もなく、仕事が再開するという感覚も希薄な気がします。。

さて、気を取り直して。今回は『わからないこと』に対する態度についてのお話しです。

新型コロナウィルスって、文字通り『新型』なのでわからないことだらけ、ですよね。

そんなコロナ禍において、僕はリーダーシップをとる立場の人たちが「僕は、なーんでも知っている」というのが知性的だと思っているようにしか見えません。

でも、それって知性とはいわないのでは?そんなお話し。

新型コロナの怖さは、『わからない』こと

新型コロナはインフルエンザより弱いから怖くないという言説をよく耳にしました。(今でもたまに聞きます。)

でも、実は日本で感染が広まりだした頃は、それが『事実』とはだれにもわからなかったはずです。

だって、データがないから

数人のデータがあれば、多少わかることもありますが、統計データというのはある程度のサンプルサイズ(n数)がないと傾向がわかりません。サンプルサイズが増えるまでには、ある程度の期間と、新型コロナウィルスでいうとPCR検査が必要だったわけです。(新型コロナにかかった人の予後がどうで、どういう年代の人が掛かりやすいというのは、当たり前ですが!その人が新型コロナにかかっているかどうかを検査しなくてはわからないのですから)

最近ようやく実態が分かってましたが、それはサンプルサイズが上がってきたこと、それに伴い海外の研究論文が出てきたからです。

例えば、新型コロナウィルスは、肺炎ではなく、サイトカインストームという免疫暴走を引き起こすいうことも新たにわかってきました。

免疫細胞が過剰に増幅することで、炎症が発生、それにより血液が凝固し、脳梗塞等を起こします。中国で突然人が倒れるというショッキングな映像が流れていることもありましたが、その裏付けとなるデータがでてきたわけです。しかし、サイトカインストームが起きやすい人と起きにくい人の違いは、わからない。

そんな事実がある中、1月や2月に時を戻すと、為政者たちは『インフルエンザより致死率は低いから怖くない』や『新型コロナウィルスの弱点がわかった』というような声もちらほら。見当違いも甚だしいわけです。

『そりゃ状況が変わったら、意見も変わるだろう』という、僕に対するご批判もあるでしょう。

でも、その批判すら、僕は怖いと思ってしまう。

わからないことを、適切に恐れるという感情がない、恐れの感情をいただくことが悪いことだという価値観をかぎ取ってしまうからだ。

分からない状況でも決断するのがリーダーシップだというのが、どうも僕には怖いのです。単に僕が『ビビり』なだけならいいんですが、感染症対策というのは国の安全保障対策の中でも非常に重要なものです。

その感染症対策が、データの裏付けなしに進められている、そのことが僕には恐怖でしかないのです。

分からないことを分からないと言える勇気

どうも「わからない」ということを「カッコ悪い」と捉える人が多いような気がします。

でも僕は、知性とは『自分の分からないことを知っていること』だと思っています。もっと言うと、自分の分からないことを適切に知っている人だけが、リーダーシップを発揮できる、そう思っています。

新型コロナウィルス対策でいえば、感染症学についての知識が必要になります。クイーンエリザベス号には感染症学の専門家が乗っておらず、セーフティゾーンの切り分けが全くできていなかったと、岩田健太郎先生が告発されていました。(岩田先生は感染症対策のスペシャリストです)

これは、厚労省の役人が自分の知らないことに無自覚だったことの現れにほかなりません。

自分たちが『感染症学のことは分からない。ということは、何が起こりうるかというリスクが推測できない』という思考ができていれば、当時違った判断ができたかもしれません。

新型コロナ対策、どうすればよかったか

では、新型コロナにどう立ち向かっていけばよかったか、僕なりの対案を出しておきたいと思います。

まず、実体把握のためのPCR検査は必要だったと思います。『クラスターという集団感染に対応すればPCR検査数は増やさなくてもよい』というのが同時の政権の建前でした。

ただ、途中で経路不明の患者が増え、クラスター対策はもはや意味を持たないようになりました。(いまだにクラスター対策班という名称は冠したままですが…)

この『日本独自』のクラスター対策が果たして本当に効果的だったのかは、クラスター対策班自身のレポートが待たれるところです。(出すのかな?)

ただ、僕自身はなぜ日本が、「日本独自」の対策を取ったのか、その意味がわかりません。オリジナリティを誇らしげに語っている人もいるのですが…なぜエビデンスに基づかない行動をとるのか、それによって効果が表れなかったらどうするのか。

よく、わかりません。

だって、韓国やドイツが致死率の低い対策を示しているじゃないですか。なぜ、そのエビデンスがある対策にのっとらず、『日本独自の対策』が必要だったのでしょうか

『わからない』からこそ、エビデンスに基づいた行動、つまり韓国やドイツに倣うことできなかったのでしょうか。PCR検査や医療物資について、なぜすぐに増産へ舵を切らなかったのでしょうか。

それは『わからないこと』に対する態度が、大きな問題として横たわっているように僕は思っています

自分たちはすべてを把握しており、適切な指示が下せている、それがリーダーシップだと思っており、その架空のリーダシップが崩れそうになると、データのとり方を変えてしまうという体たらくです。

※PCR検査については、日本の医療キャパシティが枯渇している、医療崩壊を起こすから反対だという意見があります。確かに短期的にみるとそうなのですが、これまで感染症専門病床や保健所の数を減らしてきたという行政の結果がありますので、そのことは訴えておきます(詳しくは、こちら)。現在PCR検査の増加に踏み切っていますが、なぜ『今』なのか。

※新型コロナが感染を広げる3月4日に、各都道府県に対して病床削減の通知を出していることが田村智子議員の質問によって明らかになりました。

次世代のリーダシップには『インテグレーション』が必要

現代では、多様性が大事だと言われるようになってきました。なぜ多様性が大事なのか、僕の持っている答えは至極簡単です。

それは『多様性を持っている社会構造のほうが耐性があるから

多様性の有用さを問われれば、僕が答えるのはそれだけです。

ここでいう多様性とは、よくある『高齢者や子ども、様々な年齢の人を集めた』みたいな話ではありません。

そうではなく『自分の全く知らない価値観や知識を持つ人たち』が共存している、それが多様性だと思っています。

つまり、『あの人たちはこうだ』と言い切ってしまえるような人を集めても、それは多様性を担保したと言えないのです。

行政というのは、あるカテゴライズされた人たちに、そのカテゴリーに従った予算を分配するという仕組みです。ですが、ある時から行政は『それは生産性がない』とか『利益を上げない』という大号令をかけて、その政治家自身の『よくわからない分野』である社会資源を大幅に削減してきました。(削減例はこちら

これは、変化の時代と呼ばれる現代に適切なリーダーシップとは言えません。『俺はすべてを知っている』というヒロイズムに浸っていられたのは、高度経済成長期でモノを作っていればどんどん売れていった時代だけです。

自然環境、科学技術、様々なものが大きく変化していく今の時代は、『自分の知らないことを知っている人を、いくら知っているか』という知性が必要です。

変化の時代のリーダーシップは、その『自分の知らないことを、知っている人』を適切にピックアップし、その意見を、論理的な思考をもってインテグレート(統合)して、ビッグピクチャーを描くことです。

乱世には、(自分にも理解しやすい)強くて分かりやすい指針を求める人が多数現れます。そのこと自体を責めるつもりはありません、だってどの時代にも繰り返されてきたことですから。

ただ前述したように、そういう強い物言いの人たちが、「自分には価値がわからないから」という理由で、社会の基盤をどんどん削り取っていった事実に目を向けませんか?

さらに加えて、そういうクリアカットな物言いをする人というのは、この変化の時代においては(というより、1900年代後半の変化しなかった日本が特殊だったのでしょうが)、判断を誤りやすい、このことを念頭に置いておいたほうがよいのではないでしょうか。

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