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「五感の導き」

 私は、7歳の時にピアノを習うことになった。ピアノ教室の先生は、隣のおうちのやさしいおばさんだった。おばさんと母に「習ってみる?」と問われ、好奇心で「うん」と言ったら、ある日、学校から帰ると狭いリビングは大きなピカピカの牛みたいなピアノに占領されていた。驚いた。事態の重さをピアノの重量並みに感じた。そして、すぐに楽譜というものはこんなにも厄介なのか、と思い知った。音階によって音符の色が違ったり、明暗があったら、頭が楽だったのだろうか。結局、ピアノは挫折した。以来、音楽は「聴く」ことで楽しんだが、どこか楽譜(=音楽)の外に追いやられた気がして、それが心の隅に引っ掛かっていた。そんな思いが一掃された、素晴らしく且つ、やや滑稽な、ささやかな体験をここで述べたい。

 本で、「森に住む鳥や虫の声、小川の流れ、自然界の音を音楽として考える民族」について読み、それが心に留まっていた時の出来事だ。思い掛けず、終電に近い遅い電車に乗ることとなった。地元駅前の駐輪場は、既にシャッターが下ろされていたため、愛用の自転車を置いて静かな夜道をひとり徒歩で帰宅しなければならなくなった。その時、自然界の音を音楽として考える民族のことが頭に浮かび、私もそんなふうに楽しめるのかと試してみたくなった。徒歩16分の道のりを3倍以上ゆっくり歩いて帰った。

 アスファルトの上の砂と小石たちは、革靴の底で弾けて気持ちのよい音をさせていた。革サボの中の自分の素足がその中で滑る音、左右ほんの少し足の長さが違うせいか、時々地面をわずかに蹴る音。自転車の車輪がシューッカタカタ、シューッカタカタと、私の足元よりもう少し高い位置で鳴りながら過ぎ去った。いつもは割と急いで通り過ぎてしまう小川の音に聞き入ると、川底の石にぶつかってだろうか、くにょくにょ、こにょこにょ、ちょろちょろ、いろんな音がしていた。当時の私は普段、鈴の音色が心地よくて、大抵左足には鈴のアンクレットを巻いていた。ゆっくりとリズムを刻む鈴の音と、いつもより数段新鮮な音を放つ世界に耳を澄まし、更に、よくヨガでやっているウジャイ呼吸の音を合わせてみた(意識をリラックスした喉に集中させて行うもので、呼息と吸息の喉を通る空気の摩擦音、寝息のような音が特徴)。呼吸音と合わさる日常の細かな音と、鈴の音が、まるで音楽のように感じられてきた。かと思うと、驚くことに次には「色」や「かたち」が、その静かでユニークな音楽と共鳴し合っていることがありありと感じられてきた。「歩く瞑想」や「食べる瞑想」を経験したことがあるが、それは「聴く瞑想」のように感じられた。

 そうして、自宅に到着しても聴くことへの意識は途切れなかった。されど、突然に空腹感も押し寄せた。夜中だったが、お湯を沸かし、晩ご飯に生ラーメンを作ることにした。意識的に、TVはつけずに、ただ耳を澄ましてみた。換気扇の音はひとつだけではなく、3種類ぐらいに聞こえた。ワークトップに置いたラーメンのパッケージは、自由なリズムでプチッ、パチッと断続的に小さいけど元気な音をはじいていた。ガスの音は青い炎とよく共鳴し合っていた。喉が渇いたので、1ℓの紙パックをしゃっくと開けて、薄いガラスのコップにとくとく注いだ。全てが、非常にゆっくりしたリズムを刻んでいるようだった。私は右手の指で、ガラスのコップを弾いてみた。ドリンクを半分飲んでもう一回、少し音が変わった。お湯が沸騰するのを待ちながら、音の世界が楽しくなっていた。気付いたら、夜中のキッチンで、手にしていたお箸でどんぶりやグラスやヤカンをそっと叩いていた。もしや・・、音楽はこんなふうに始まったのでは?と、はっとした。沸かしている鍋の隣には、ラップをかけた冷えきった鍋があった。そのラップの裏に出来た無数の水滴が、突然、猛烈に美しく目に飛び込んできた。それは、しっかり聴かなければ、気がつかなかっただろう美の世界だ。水滴を始め、いろいろな日常のモノたちが、リアリティを増してそこに存在していた。手に持っている透明のビニールに入った生ラーメンも信じられなく美しかった。別に酔っぱらっていたわけではない。しかし、こんなに生ラーメンを美しいと思ったことはなかった。「音が聞こえるような絵」というものがある。そこへの到達手段は、いろいろあるのだろうけれど、繊細に聴くことの先で生まれるのかもしれないと思った。五感を普段の何倍も何十倍も研ぎ澄ますと、きっと描きたいものとの接点というものが感じられてくるのだろう。きっとそれがリアリティだ。五感は描くことにも反映されてくる。音楽に対し、コンプレックスを抱くより、普段から音を丁寧に聞くこと。描く上でもその重要性は歴然だと前向きな気持ちになれた。仲間に入れてもらえたような喜びもあった。その重要性をひしひしと感じると共に魅せられた。

 改めて、世界と一体化したような感覚の心地良さを思う。私は決して音楽の外にいたわけではない。いや、音楽に限らず、そもそもこの世界は内も外もないのだろう。水が水を吸収するように境界なんてない。きっと、五感(見る·聴く·味わう·嗅ぐ·触れる)を研ぎ澄ますと、森羅万象全てが一体であると感じられる気がする。さて、出来上がったラーメンはとても美味しくて、ちょっと慌てて食べてしまった。もっとゆっくりと丁寧に味わっていたらどこに行けたのだろうか。兎にも角にも、今考えても、面白く大切な経験をしたように思う。これを日常化させれたら最高だ。

指導員K

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