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大学院へ

来年の4月より、立教大学の社会デザイン研究科へ大学院生として入学することになりました。

独立してから14年、医療、福祉、児童福祉にまつわるデザインをする中で、見た目や情報を整えるだけではない、もう一歩踏み込んだコミュニケーションのデザインが必要ではないか、と思うことが増えました。

もう一歩踏みこんだコミュニケーションとは
・専門家と一般の人を繋ぐコンテンツの企画
・専門性の高い情報と一般の人のニーズを理解し噛み合わせること
・B to Bのように、専門家と専門家をつなぐ情報整理
のことです。

そのためにも、社会がどうなっているのか、今何が問題なのかを、学術的な視点で知りたいと思いました。独学で本を読んでみたものの、点と点がつながるまで時間がかかり限界を感じた事、対話相手が欲しいと感じた事も進学を志した理由にあげられます。

仕事上でのモチベーションは上記の通りですが、私生活上でのモチベーションがあります。

今回、受験に際して提出した研究計画書では「ケア、ジェンダー、働き方」をテーマに据えて構成しました。(詳細は省きますが)

子育てと仕事をしながらちょうど10年が経過しました。この10年で実感したことは、世の中では、家庭内のケア労働より経済的価値を産む市場労働がいかに重視されているか、ということでした。

お金、社会的評価、人脈にはまったくつながらない家庭内のケア労働ですが、これがなければ人は働けないし、生きていくことができません。

そんな当たり前のことに、私は自分が出産するまで気づかずにいました。出産しても、しばらくは自分が行う日々の家事や育児に価値があると実感できず、もがいていました。育児中の「世間に置いていかれる」という焦燥感は、ケア労働への価値観が、自分の中になかったからでした。

自分自身も、この世に産まれてから独り立ちするまで20年近くを親のケアによって生きてきたにも関わらずです。

家庭内のケア、という視点で世の中を眺めていると、福祉、子ども、ジェンダー、働き方、そうした課題につながることにも気がつきました。

例えば、私が所属してきたグラフィックデザイン業界も、志望する学生は女性が多いのに、40代以降の地位ある人はほとんどが男性です。

その理由のひとつに、ケアを担うのが女性だから、というのがあります。時間無制限に制作に没頭し、出張して現場を飛び回る働き方は、日々の子どもの生活リズムをつくるケア労働とは全く相性が悪い。

私は、デザイン業界の慣例を内面化していたため、17時には仕事をやめ、出張には行かないという選択をする度に、この業界には居られないという不安感を抱き続けていました。

でも、ケアを担う人ならではの働き方を、自分でつくれば良いと思えるようになりました。そして、その働き方は、これから人口が減少しケアする人も働き手も減っていく日本において、男女別なくすべての人にとって必要な働き方なのだと思います。

仕事をやめケアに切り替える時、焦りや不安感を感じないためにも、ケアの価値を自分の中にしっかりと認めていくのが大切だと考えます。

スーパーでトマトを吟味している時、子どもの宿題をみている時、送り迎えをしている時、夜眠りにつく家族を確認する時。(そういえば、子育てにおける大切なことは、こども園の運営や児童福祉を担う方達がたくさん教えてくれました。)

それは、クライアントのヒアリングをする時、ロゴを作る時、プレゼンする時、飲み会に出席する時と、同等かそれ以上に価値のあることです。

そうした、ケアする側の気持ちを理解することで、福祉や医療のデザインにも説得力がでてくるのではないか、とも思います。

そんなケアの世界を、書籍や先行研究などからも構造的に知る事で、何度も気持ちが救われました。ケアとは何か、労働とは何か、性差とは何か、そんなテーマで潜り、未来を見据えた適切なコミュニケーションのデザインが提案できれば理想です。

家庭と仕事と研究を両立する上で、立教大学は唯一、この分野でオンラインで講義を受け、研究を行うことができる大学院でした。地方だから、子育て中だから、という理由で諦めなくても良い環境を整えてくれています。

私的な関心領域をとっかかりに、デザイン領域でも活かせる研究ができればと思います。

きっかけをくれたたくさんの諸先輩方、福祉機関、NPOの皆さん、医療や子ども関連の皆さん、応援してくれた友人家族に心から感謝しています。