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すごいアメリカンチェリー

前をノロノロ走っている車の、テールランプをずっと見ている。
新車の灰色のシトロエンだ。
そのさらに前には車はいない。
私はシトロエンを追い越すこともできない。片側は崖で、1車線しかない乾いたオレゴン州フット山の麓の山道だ。
いくつかのカーブをすぎた。 
すれ違いのための待避所が、近づいてきた。
シトロエンは、見向きもせず、ノロノロ運転のまま、よたよたと通りすぎていく。
うしろの私の自動車に気づいていないのか。
私は、怒りでカーッときて、
「パッパッパッパッ!」とクラクションを鳴らした。
おっと。初老のはげ頭のドライバーが、前を向いたまま、右手を上げた。
「ん、なにかのハンドサインか?」
男は、人差し指で、バックシートの何かをしつこく指さした。
うん。どうやらドライバーは、
「どうか、わたしの指さしているものを、見てください」
と、言っているようだ。
シートの背もたれから、特徴のある緑の葉っぱがはみでている。
ははーん。わかった。もう、そんな季節なのか。
彼は、ドラゴンチェリーを買って、家に帰る途中なのだ。
ドラゴンチェリー。これは、ここオレゴン州の名産品だ。日本の佐藤錦などのさくらんぼと比べて、大きさも大きく何倍もうまい。色は真紅、皮は薄く、実は芳香を放ち、ジューシーでとても甘味が強い。これは本当に美味しい。
ぜひ日本人にも味わってもらいたいところだ。しかし残念だが、アメリカのオレゴン州に5月に来るしかない。

たしか一年前の、ちょうど今頃だった。道を走っていると、
「すごいドラゴンチェリーあります」
と書いてある看板が、住宅の前に出ていた。
「すごいドラゴンチェリー?どんなチェリーなんだろう。」
ドラゴンチェリーというだけで、すごいのに。
砂糖より甘い?もしくは色が青いか?とてつもなく大きいとか?
看板に興味をもった私は、その住宅の車寄せに車を止めた。
そしてエントランスのドアにある、ベルをカンカンと鳴らす。
ガチャとドアが空き、大柄な白人の男が出てきた。腕には刺青がびっしりだ。
私は、少しビビりながら英語で切り出した。
「えぇーと、私は、あなたのこの家の、正面にある、看板を、見ました。そこに、すごいドラゴンチェリーあります、とありました。」
「ようこそ。友よ!チェリーたちが待ち望んでいるぜ。こっちへ来いよ。兄弟!」
男は、ジョーという名前だった。
ジョーは、住宅の奥の庭の方を手のひらで示した。
男のあとに続いて、家の横をずんずん進んでいく。
そこの中庭に建物があった。車が15台くらい余裕で入りそうな、ガレージの様な外観だ。
入り口には、大きなシャッターがあった。ジョーが、自動のそれをウィーンと開けた。

私は、近現代的な、アグリカルチャー、水耕UVライト栽培のような、さくらんぼ農園を想像していた。
予想は外れて、そこには、なんだかみずぼらしい、植木鉢が50個ほど、閑散と置いてあるだけだった。
ホームセンターの売れ残り植木売り場みたいだった。少しがっかりした。
「試してみるかい?ぶったまげるぜ。」
ジョーは、そっと木からチェリーの実をいくつかとり、私に渡してくれた。
大きさは、普通だった。見た目は、たしかに虹色のような輝きがあるが、普通のドラゴンチェリーと変わらない。
私は、静かに口に入れた。その味は、うん。信じられないほど美味しかった。あっという間に口のなかで溶けてしまった。

「どう?ジョーの技術、すっごいでしょ。」
いつのまにか私の足元に来たドラゴンチェリーが、こっちを見上げて笑った。土に穴の空いた植木鉢が転がっている。ドラゴンチェリーは、主に根っこを使って歩くのだ。ジョーは言った。
「私が伝えることは2つ。家に着くまで途中で止まってはならない。スピードを20キロ以上だしてはならない。果実は、加速するスピードにとても弱いんだ。」
「そのとおりよ。」
チェリーの木はひょいひょいと身体をゆらし、葉っぱをパサリパサリと振りながら言った。
「わたしたちは、ジョーと、このオレゴンのフット山のふもとの場所を愛しているの。だから、離れていくときは、できるかぎりゆっくりと、離れてほしいの。」
わかった、その通りにする、と私は神妙にチェリーの木に約束した。
普段なら1時間の道のりを、5時間かけて帰った。

家に着いて、後ろのドアを開けた。車の床に、チェリーの残骸が落ちていた。チェリーの木に実はなかった。
「うぅ、わたし、こんなことになっているなんて、言えなかったの。ごめんなさい。」と、小さな葉っぱを寂しく揺らした。そして彼女は、繊細な腕をかわいく組んで、きれいな眉をひそめて言った。
「でもこれ、プリウスなんでしょ。音が静かすぎて移動している気がしなかったの。やっぱり、車には振動、エンジン音、ガソリンの匂い、こういった『リアルな』実感がないと。」

次の日が来た。私は、ほぼ新車だったプリウスを下取りに出し、手放した。走行距離30万Kmのシボレーと交換するためだ。車歴も怪しいが気にしない。
「トヨタのプリウスは、いま2年待っても手に入らないね。」ディーラーのダフィーは、小躍りしていた。


こんなに晴れて気分の良い日には、ドラゴン・チェリーと私は、「アメリカ・ザ・ビューティフル」を一緒に歌う。


(別ペンネームで別サイトに掲載していたが案外反応が良いため、転載しました。2024/09/24)

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