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「わたし」、再考

オンラインライブ『末法独唱 雨天決行』

安藤忠雄設計の「真駒内滝野霊園・頭大仏」がプロジェクションマッピングによって「雨曝大仏」となる異形のステージでの弾き語りライブを観た。
2014年の「千分の一夜物語 スターライト」から気づけばずいぶん参戦してきた。

大仏の前にアコースティックギターを抱えて立つ秋田ひろむの周りには、Twitterで「今年やるせなかったこと」として集められたメッセージ入りの灯籠が置かれた。

「本当の芸術は見た人の心に傷をつけるものだ」とは社会学者 宮台真司の言葉だ。

心に傷をつける

心に傷をつけるという表現を字面だけで受け取ってはいけない。
では傷とはなんだろうか。
極私的な意見としては、その人を世界の外側に連れ出すもの。
見た人の何かを破壊する行為。
殻を破ることを促す刺激。
本当の芸術に出会うことは「啐啄同時」の可能性を含んでいるように思う。

イイネの数や賞賛を得ることを目的とした「ただ心地良いもの」を芸術だと思う人に対して宮台は言う。

「クズだ」と。

法の奴隷、言葉の自動機械化、感情の劣化、損得野郎。

これらは宮台の言う「クズ」の特徴である。
そんなふうな人間になるなと、
宮台は挑発する意味も込めて厳しく言い続けている。

amazarashi「無題」

「本当の芸術は見た人の心に傷をつけるもの」
この言葉を聞くと「無題」という歌の2番の歌詞を思い出す。

誰もが彼の絵に眉をひそめた まるで潮が引くように人々は去った
変わってくのは いつも風景
人々は彼を無能だと嘲る

なぜこんなことになったのか。
答えはこの直前の歌詞にある。

彼はますます絵が好きになった もっと素晴らしい絵を描きたい
描きたいのは自分のこと もっと深い本当のこと
最高傑作ができた 誰もが目をそむける様な 人のあさましい本性の絵

「ほんとう」過ぎることは嫌われる。
いや、無意識に恐怖を感じるのだ。

誰かの本性を見ることは自分の本性を見ることだから。
芸術は心地よいものと思う人からすれば「人のあさましい本性の絵」など、不気味で不快で苛立ちすら覚えるかもしれない。

「わたし」のチューニング・メーターとして

いつでもどこでも「ほんとう」が最善かと言われれば否だ。
そもそもなにが「ほんとう」かなんて、少なくとも私にはわからない。

ただ、資本主義社会で落伍者になりたくないなら順応し、生産性を上げ、価値を上げ、勝ち組になれ、と明確な歌い手の分からない歌が地響きの如く鳴り続ける世界にいると、揉みくちゃになって、なにがニュートラルなのかさえ分からなくなる。

そんなとき、この人の歌に帰ってくる。
ニュートラルに戻るためのチューニング・メーターのようだ。

なにも秋田ひろむが「わたし」の答えを知っているわけではないし、
答えを知っていると思える人に救いを求めるなんて、それは「崇拝」だ。
そんなこと彼は望んでないだろう。

光、再考

「資本主義社会」と「自分のほんとう」というはざまで揉みくちゃにされながら、それでも歌う表現を辞めない「彼の在り方」に私は共振したいのだ。

ともすると揉みくちゃにされたままの勢いで「もう染まり切っちまえば楽になれる」と消えてしまいそうな自分に対して、

「わからない」をちゃんと「問い続ける」こと
「問い続けた先」にある不確かで微かな光の中から選び続けるということ

そんなニュートラルな姿勢を、自分を、
秋田ひろむの表現は取り戻させてくれる気がするのだ。

「自分のために歌った歌が、巡り巡って誰かのためになるのなら、それは最高のゴールだ。」と秋田ひろむは言う。

彼は自分(わたし)のために歌い続けている。

そんな彼の歌だから、たくさんの「わたし」の胸に届くのだろう。

どんな人も、「わたし」でしかないのだから。

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