休日城跡めぐり(諏訪原城跡)

田中城の次、最後に回ったのは諏訪原城跡だ。
この城は武田信玄の死後、勝頼が高天神城を攻略するために中継補給基地として築いたのが通説。東海道を大井川から牧之原台地に上がった真上にある交通の要所という性格上、高天神城攻撃以外に遠州の支配の強化と遠州東部の要衝掛川城攻撃も考えて築かれた城なんかじゃないかと思う。
以上からこの諏訪原城と二俣城は家康にとって邪魔な城で、長篠の戦い後に一気に攻めて奪取している。そのために勝頼は高天神城の維持と駿河に直接攻撃を受けることになる。この諏訪原城が徳川方になったことで武田と徳川の攻守の立場が逆転したことを鑑みても重要な城だと言うことが分かる。

丸馬出し、三日月堀が良く残っている半円状の城。武田流築城術の代表作と言われていたが2018年の発掘でいろいろな事実が分かったようだ。その辺も見るためにこの城へ向かった。因みに上の画像は資料館にあった徳川期の諏訪原城(徳川期は牧野城と呼ばれていた)

資料館には最近の発掘調査の結果がいろいろ書かれていた。そしてなんと、武田期の諏訪原城は本曲輪付近を中心とした小規模な城だったことが判明。徳川も武田と戦う過程で武田流を真似した城づくりをしていたことが指摘されるがこの城はまさにそれだったのだ。それか人材が流出してその人間が諏訪原城を建て替えたのかもしれんけど、現代科学で真実がわかるというのは面白くもある。これを見た上で現在の遺構を回ってみる。

元々二つの丸馬出しの内側が武田期の遺構とされてきたのだが、この城の一番の目玉はこの二つの丸馬出し+三日月堀である。

この丸馬出しは小山城跡以上の大きさで見応えある。でかいし、400年たった今によく残ったと思う。

二の曲輪の中は大きな空間。ここは比較的よく土塁が残っているように思う。

馬出しの中二の曲輪を通り土橋を通り本曲輪へ。本曲輪の手前には武田期は丸馬出しがあったらしい。

土橋を渡ったところには枡形虎口があったようだが、

ご覧のように今は土が崩れてただの盛り土になっている。堀に比べ土塁など土で作った遺構は残りにくいのだろう。これは考え方だけどある程度残っている段階で山中城のように芝生で固めておくほうが後世に残しやすいかも知れない。保全という意味ではいいけれどもオリジナルはその時点で消滅するわけだが。

諏訪原城の本曲輪の裏側は牧之原台地の崖になっており金谷の駅が見える。背後から攻めるのは大変な城だ。

二の曲輪の手前のもう一つの大きな丸馬出しは中が諏訪大社になっていました。大島城跡もそうだけど丸馬出しの中って適度な空間なのでちょっとした施設を建てれてしまう。しかも周りが堀なので堅固でもある。

最新の発掘結果を公開している資料館と整備された城跡は戦国城郭ファンには必見だと思う。今回は途中から雨が降ってきたので足早に退散したけど次回来る時ははもう少し詳しく見たい

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