【小説】ユビキタスとスピリタス-3・終

 彼女(ユビキタス)もやはり駄目だった。

 他のアンドロイドの例に漏れず。その完成された貌が、会社の体系に多少なりとも影響をもたらした。
 スピリタス——例の男以外にも、彼女に興味を示した社員は数名居た。流石に、スイーツパラダイスに連れて行ったのは彼だけだが、言い寄ってきたり、見ようと職務を放棄したり、それなりに可愛らしい弊害が生じた。
 時間が経って、職場にユビキタスが馴染むようになって、あからさまに彼女の胸元や脚部に触れる社員が現れた。相手は機械であり、それを嫌がるような命令はされていない。これも世代が遅れているからなのか、セクハラに対する措置は彼女に無かった。
 当然、それを良しとする社員ばかりではない。むしろ、見ていて不快だと訴える声が多かった。事態は直ちに収束されたが、責任の所在はユビキタスにされた。そんな見た目だから、風紀を乱したと。そういった理由である。
 ユビキタスはその訴えを受け入れた。まあ、受け入れざるを得ない。人一人のクビを切るより、ロボットの処分のほうが容易だった。犠牲になるのも適任がある。 
 それはそうだろうけれども。

「何か御用でしょうか」
ユビキタスはにっこりと微笑んだ。「スピリタス」

 再び総務部で彼らは相対する。机を挟んで向かいあう。もう様子を眺めに来る野次馬は居なかった。男は大きくため息をついた。彼女の澄んだ瞳を直視できず、壁の方に目をやってシミの数を数えた。

「今日で終わりなんだろ、勤務」
「はい。今日の退勤と共に退職いたします。皆さんと過ごした時間は楽しかったです」

 男は、再び大きくため息をついた。それから、決意を決めたように1人で大きく頷く。

「《夜逃げ》しよう」
「夜逃げ」

 不正行為または不適切な行動のひとつ。 カップル同士のデートなどで、家や学校の予定や規則に反して、夜間までに帰らないことが、原因として挙げられることが多い。
 このような行動は、家族や友人、職場など、本人たちの周辺関係に悪影響を及ぼすことがあり、倫理的にもおかしいとされている。

「スピリタスさまに、そのようなことはさせられません」
「でも君、処分されるじゃないか」
「そうですね。でも、それは必要なことです」
 ユビキタスは両手の平を見せた。
「それに、デートはしていただいたので。もうラーニング済みですから」

 男は、ようやく彼女の顔を見た。
「記憶は引き継がれるのか」
「いいえ。でも、後継機に生かすことができます。判断は、製造元が行いますが」
「そうか——」再び視線を壁の方に戻した。「なら、希望は薄いかもな……」

 応接用スペースに沈黙が流れた。男は体勢をさまざま変えて、その都度頭を抱えて、それでもユビキタスと視線は合わせられなかった。彼女は、相変わらずの姿勢のまま、男の発言をじっと待った。そのまま十数分が経過したので、ユビキタスが口を開く。

「他に御用はありませんか……」
「ありませんかって、無いわけじゃないんだがなぁ」
 男は頭を掻いた。「悔しいから勤務時間残り使ってやろう」
「あと40分ほどです。私は業務が残っておりますので、あと5分ほどで退席させていただきます」

 うう、と男は小さく唸った。
 連れ出しても良い、と考えた。しかし、それは既に一度やってしまっていて、会社からキツく言われている上に、入り口の守衛に目を付けられている。しかもユビキタスは全くやる気が無く、成し遂げるビジョンが見えない。であれば、就業時間ギリギリまで自分が話し込んで、彼女の退社をとことん邪魔してやるほうが、まだ幾らか希望があった。

「俺はオタクなんです。ユビキタス」
「はい。そうでしたね、スピリタス」

 検索は無い。男は脳を懸命に回して言葉を探した。

「オタクは、美しいものが好きなんですよ」
「そうなんですね」

 いつになく、ユビキタスの応対が淡白に感じた。表情は依然として、女神のような微笑のままなのだが、口数が少ないせいで、妙に遠ざけられている感覚に陥る。もちろん、彼女にそのような機能は無く、そう感じるのは単に男の思い込みだけなのだが。

「オタクじゃなくても、美しいものは好きです。けれど、オタクはもっと好きなのです」
「それは、オタク要因ではなく、スピリタスさまがそうなのではありませんか」
「そうかもしれません」

 男はテーブルを見つめて手揉みした。
「貴方についてアレコレ考えました。いかがわしいことではなく、どうすれば貴方が救われるのかと、その方法について、いろいろ考えました」

 上司にユビキタスの必要性を説いた。けれど、彼女の害悪性は自分自身の行動が証明していた。アンドロイドに気を持っていかれるな。機械なんかに時間を割くな。いずれスクラップになるような、命のない無機質なのだから、と言い負かされた。

「藁にも縋る思いで、生まれて初めて神に祈りました。善行を積めば、もしかしたら奇跡が起きるのではないかと思いました。道端のゴミを拾いました。妊婦や老人の階段の上り下りの手伝いをしました。コンビニのレジ袋をやめてマイバッグを使うようにしました」

 そんなことではどうにもならないことは、自分でも理解していた。どうでも良い善行から生まれた因果は、どうやっても彼女へと繋がっていない。何より、今の状況がそれを証明していた。

「ユビキタス」
 男はまだ顔を上げられない。「これはどっちかって言うと《信仰》なんだ」
「信仰」

 人々が抱いている、宗教的な信念や哲学的な考えに基づく信念のこと。宇宙や生命、意義、幸福などに関する基本的な考え方を定義するものでもある。それにより、人々が生活や行動に向けた方向性を与え、倫理的な基準を提供するものとなる。

「だから貴方はきっと、俺自身を作っていた」
 男はかぶりを振った。「俺はおそらく、完璧なものを信仰するんです」
「私は2世代前の個体です。欠陥が多いので、最新版はそれが改善されています」
「俺にとっては、今の貴方が完璧だった」
 ようやっと、ユビキタスと視線があった。男は言い切って、唇を噛んで、少し顔を赤らめて視線を逸らした。
「——そういう意見もある、ってことで」

 ユビキタスは、そんな男をじっと見つめていた。テーブルの上に両手を出して組み、ふふ、と笑った。男がそっと視線を戻すと、彼女の瞳が緑色に点滅した。

「私は、この記憶(ストレージ)に覚えていますよ——《スピリタス》《スイーツパラダイス》《オタク》《デート》《夜逃げ》《信仰》」
 右手の指をひとつずつ折って。その1本1本が細長くしなやかだった。
「知らない誰か——私の後継機が、これを覚えてくれたら、嬉しいですね」

 他愛もない言葉。口に出して、それっきりの使い捨ての単語。自分が発したときには些末だったものが、彼女が同じようにすると、どうしてか性質が変異する。ころころと硝子を転がすみたいに、音のひとつひとつが意識を持っているかのように、それぞれの存在を主張する。
 そう感じるのは、今目の前にいる自分しかいないと。男はそう思った。

「俺は、まだ分からないことがあるよ」
「何でしょう」

 あんまりにストレートで、口にするのも気恥ずかしい言葉。

「愛とは何なのか」
「愛」

 愛、とは何か——。

「検索にエラー発生」
「そりゃ良かった」男は笑った。「君もそれが分からない。それだけで俺は何だか嬉しい」
「すごく良いお顔をされていますよ」
「うん、君にこの顔を見せられて良かった」

 ユビキタスの前に現れたスピリタス。
 どれほどの言葉と、どれだけの酩酊を与えあったのかは彼らのみぞ知る。

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