【短編小説】何かのプロローグ-1


 積もった雪が溶け、花粉が飛散を始めて、人間の自律神経も季節の変わり目で不安定になりつつあるかな、という具合の時期に。
 僕たちは会社の裏のゴミ捨て場の前で話をする。

 事務の玻璃さんが、会社を辞めると言い出した。
 弊社は古いタイプの会社なので、居る人員の8割は男性だ。それも、四十を超えたおっさんが殆どである。玻璃さんはその残りの2割だ。かくいう僕は8割の一人だが、まだ二十代前半、入社3年目の新人も新人である。繰り返しになるが弊社は古い会社なので、その例に漏れず若い世代も徐々に少なくなってきている。
「お前はよくやってるよ」
 そう僕に言う彼は、僕と同じ若手のうちの一人だが、数年歳上の先輩だ。はっきりとした顔立ち、すらりと伸びた背——これといって抜きん出た特徴の無い僕と比較すると雲泥の差だ。
「仁保さんは辞めないですよね」
 僕の発言に、彼は紙煙草を咥えながら、不思議そうな面持ちでこちらを見る。小鳥がそうするように小さく首を傾げ、煙草に火をつけた。煙の匂いが僕の方にも回ってくる。彼は壁に寄りかかると、何か考えるように僕に視線を向ける。
「寂しいのか」
「まあ——」否定するのは嘘になる。「ですけれど、彼女には彼女の生活がありますし」
 仁保は返事をしない。僕の方を見たまま、煙草の灰を落とす。


 玻璃さんは、おっさんが大半を占める弊社では、希少な若い女性社員だった。その上、美人で気量よく賢く、仕事もよく出来る、人間としても出来上がっていた人材なので、重宝されるべくして重宝されていた。入社当初では「何故弊社のような荒んだ職場に」と疑問が湧くほどで、砂漠に湧いて出てきたオアシスの天使のように扱われ、それは彼女が退職願を出すまで変わらなかった。
「でも」
 自分が考えている言葉が、そのまま口から出てくる。「辞めるとなると、どうして皆態度が変わってしまうんでしょうか」
 脳裏に上司や先輩たちの顔が思い出される。それに伴って、僕がどんな顔をしていたかは分からないが、仁保はその様をずっと観察していたようだった。彼が煙を吐いて、その煙が灰色の空に吸われていくのを、僕は無意識に目で追っている。
「虚無め」
 仁保が僕の目を見て言う。
「人は、願いを聞き届けてくれそうな人間が、願いを叶えてくれなかったことの不完全さに憎悪するものなんだ」


 玻璃さんは、2月に入るや否や僕たちに言って回った。
「私、来月結婚するんです」
 彼女は、とてもよく出来た女性だ。だから、相手が居ようと別におかしいところは何もない。むしろ、浮ついた話が就業期間中に一つも聞こえてこなかったのが不思議だったくらいだろう。もし、僕が彼女と同じ外見を持っていたなら、男の一人や二人手玉に取って、贅沢をしたいと考えるが、その時点で僕は彼女と違っていたのだと分かる。
 そんな彼女が籍を入れるとなって、職場は騒然とした。相手は職場の人間ではなく、学生時代からの恋人だと明かされた。彼女は大きくない弊社のアイドル的存在だったわけで、蝶よ花よと育てられていたからには、その影響は少なからず発生する。
「いや、育てられたというか、囲っていた……とか、そういう感じでしょうか」
 崇めるように、逃げられないように、褒めて、讃えて。そんなことを繰り返す。
「まるで宗教だな」そう言う仁保は無表情である。
 確かに、おじさんひしめく場で、若い女性社員が現れたら、それは女神になり得るだろう。それは必然と言えば必然だが、それが当然とまかり通る社会も社会だろう。少なくとも、現代の在り方にはそぐわず、やはり古い会社だと言わざるを得ない。
「しかし、変化が必要だと会社が理解しているとも思い難い」
 僕の言葉に、仁保は歌うように言う。
「人は城、人は石垣、人は堀」
 武田信玄の名言の一つだが、今の話とは微妙にニュアンスが違っているような気がする。まあ、それがどうだからと言って、何かが変わるでもないので、そのままにしておく。
「城という名の会社という名の社員たちが手に入れた女神が、我々を見放した」
 というのが、弊社8割の見解だろう。「ひどく傲慢に聞こえるのですが」
「さあ」
 仁保はそう答えた。僕は、彼が思考を放棄したように思えた。


 この手の、人を貶す言葉などは容易に用意できるのであって。
「よく仕事が忙しい時期に出て行けるね」
「子どもができたわけでもないのに」
「俺たちの恩を忘れて図々しいな」
 そんなことが、玻璃さんの影で囁かれ、ひどい時には本人の目の前で言われることもあった。いい大人が、小学生みたいなことを堂々としていて腹立たしい。しかし、それを止める人はいないし、それに加わって、悪口を重ねていく人がまた一人、またひとりと増えていった。
 僕は、それを止めることはできなかった。仲間に入らなかっただけマシと考えたい。
「そんなことだから、彼女に選ばれなかったのでしょうか」
 懺悔するように、何もない宙に向かって。自分で言って情けなくなってくる。心臓を軽く掴まれたように締められ、鼻の奥がぎゅっと熱く感じる。目尻に涙が溜まったのに気づき、鼻を啜って、そんなことで泣きそうになる自分自身に、より情けなさを感じてますます泣きたくなってくる。何とか平然を保って、壁に寄りかかる姿勢を維持することには成功した。
「それはそう」
 さらりと仁保は言う。その言葉に、更に膝の力が抜けそうになる。唇を噛んで堪えるのに精一杯で、彼に何かを返すことはできない。もっと言うと、仁保がどんな顔をしているのかも確認できない。隣で、息を大きく吐く音が聞こえる。
「でも、そう思ってもらえるのは、俺が玻璃さんだったら嬉しいと思うよ」
 さすがに耐えられなくなった。地面に崩れ落ちて、しゃがみこんで顔を膝に埋めた。そんな状態の僕に、仁保は何かを言うでもなく、何をするでもなく、ただ隣で煙草を吸っていた。


 では、僕は玻璃さんに何と言ったのかというと。
「玻璃さんが居なくなっても、僕が頑張るので安心してください」
 彼女は、素直に「ありがとう」と微笑んでくれた。その微笑みを貰えただけで、僕は彼女がいなくなってしまう悲しみが癒えたような気がしたにはしたのだが、時間が経つにつれ喜びは蒸発していき、負の感情だけが濃く残っていく。
 でも、「彼女を恨みたくはない」
 そう思うのは、他の嫌な人たちと一緒になることを避けるためか。それとも、彼女のことをまだ諦めきれていない自分がいるからなのか。
「いや、分かっているんですよ」
 本当に分かっているはずなのだ。「そう思うのは、僕がまだ未熟だからです」
 僕の精神が成熟していたら、こんなことではうじうじしていないはずなのだ。そんなことをしている暇があるのなら、彼女が快く次の生活へ行けるように、あれこれ手を尽くすべきなのだ。彼女を恨むとかどうとか、そんなことより、彼女の幸せを一つでも多く。
 そんなことを、頭の中でぐるぐると巡らせて、フロアをうろうろとしていると、彼女の前に現れたのは仁保だった。
 仁保さん、と彼女は他の社員と変わらない声で話しかける。
「私、来月結婚するんです」
 仁保は彼女の顔を見て、ちょっと驚いた顔をして、「そうか」と何かを噛み締めるように呟いた。
「幸せになれよ」
 そう言って、目を細めた。


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