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秋月夜(15)

     八(承前)

「お、また流れ星」アキラは、透明な笑顔をさらにほころばせる。
「気持ちを切り替えるとな、面白いもんで一気に活動的になって、工務店を開く準備を始めて、バイクを手に入れて、あれこれ動いてるうちに、思い出したんだ、まだ果たせてない、大切な約束がある事をな」
「やっぱり……愛してらしたんですね、奥様のこと……」
「えっ?」
「なんで? なんでそんなに自分を責めるの?! アキラさん、ぜんぜん悪くないじゃない! ぜんぜん悪くないのに……」黒目がちの瞳を涙でキラキラさせて、美佳は思わず声を大きくしてしまう。
「うん……ちょうどさっきも、その事を考えてたんだ。おれのことは分からんが、あいつは、妻は、おれをちゃんと愛してくれてたんじゃないかってな」胸の痛みに耐えるように、アキラは眼を細める。
「おれは、何をされても、黙って耐えるだけで、怒鳴りもやり返しもしなかった。でも、もしかしたらそれが、あいつにとっては最低に冷たい仕打ちだったのかも知れないんだ。もっと、怒鳴ってやればよかった、殴ってやればよかった、お前のことが大事だって、大声で言ってやればよかったんだ。あいつの暴言も、暴力も、突き刺すような視線も、きっと愛情の裏返しだった。それを察してやれなかったのは、おれの落ち度なんだよ」
「……わかんない。ぜんぜんわかんない」
「そうだな。美佳ちゃんは性根がまっすぐだから、まだ分からないかもしれないな。さてとっ」勢いをつけて立ち上がると、アキラはズボンについた草を払う。
「そろそろ帰ろうか。すっかり長話しちまったな」
 もう半袖では肌寒いほど、時折吹き抜ける風は秋の気配を感じさせる。静かに響く葉擦れの音が、後方左から右に緩やかに流れてゆく。
「なあ美佳ちゃん、おれはなあ、嬉しかったんだよ」まだ立ち上がろうとせず、膝を抱えている美佳を、アキラは慈父のような暖かい視線で見つめる。
「ここに来る前、正直不安もあった。失礼だが、静枝さんがまだ健在かも分からないし、もし生きてたとしても、『あんた誰?』みたいな反応されるかも知れない。だが、来てみたら、同じくらい気持ちのいい奴らが、同じくらい気持ちい場所として、ここを保ってくれていた。こんなに嬉しいことがあるかって思ったよ」そう言って、アキラは少し鼻をすする。
「美佳ちゃん、色々不安や迷いもあったろうが、よくここで店を開く決心をしてくれたな。感謝するぜ。あんたは、静枝さんから、料理の腕だけじゃない、もっともっと大切なものを、しっかり受け継いでるよ。人ってのはな、一度でも自分を丸ごと受け止めてくれる経験をしたら、それで案外生きていけるもんなんだ。おれにとっては、静枝さんとこの場所がそうだったし、あんたもきっと、そんな存在になれるよ」
「でも……あたしなんか……早とちりだし、すぐ怒ってイライラするし、ぜんぜん寛容じゃないし、おばあちゃんみたいに優しくなんかなれないの」
「それでいいんだよ。それがいいんじゃないか! 感情豊かな店主が切り盛りする自然料理店。なにも全部の客に、優しくしてやることはないんだぜ? 失礼で横暴な客には『出て行け!』って怒鳴ってやればいいんだ。単に腹を満たしにくる客も多いだろうし、それはそれでいい。でもな、きみの人柄と、この場所の雰囲気に惹かれて、癒される人たちがきっとたくさん出てくる。特別な存在になんか、なろうとしなくてもいい。美佳ちゃんは美佳ちゃんのまま、心を込めて料理を出してればいいんだよ。もしかしたら……きみが思ってる以上に、この店は、この場所は、人々にとって大切な拠点になり得るのかも知れない。健吾だけじゃない。協力者はきっと現れる。おれがたまたま、ベランダを作ることになったようにな」言葉が熱を帯び、肚の深いところから次々湧き上がってくる感覚を、アキラは意識している。
「だからな、美佳ちゃん、ここはおれにいい格好させといてくれよ。命を救ってもらった恩返しにしてはささやかすぎるが、もしおれのしたことが、ちょっとでもきみの役に立てたんなら、こんなに嬉しいことはないんだ。な?」
「はい……。はい」大きな瞳から涙をポロポロ流しながら、美佳は頷く。
「お、蛍か……」
 鮮やかな黄緑色の光が、ゆっくりと明滅しながら、草地の斜面を近づいてくる。
「この辺は蛍が出るのかい?」
「下の川にはたくさん出るんですけど、もう時季も遅いし、こんな所まで上ってくるのは見たことないです」
「そうなのか……」
 蛍はしばらく、アキラとの逢瀬を楽しむように周囲を舞い飛んでいたが、やがってふわっと浮き上がると、煌めく星空に溶け込むように、螺旋を描きながら上昇してゆく。

 翌日の早朝、アキラは旅立って行った。
 小さくなってゆく紺色のライダースジャケットを見送りながら、珍しく涙ぐむ健吾に、美佳はそっと寄り添い、寂しさを分かち合うように、掌を彼の背中に当てる。


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