見出し画像

秋月夜(19)

     十一

 約束の日、当日。
 不思議と緊張感はあまりなく、しんと引き締まったような静かな心境で、この日を迎えることができた。
 先日の派手な車の男性には断られたのか、今回は電車で来るということで、健吾に京阪出町柳まで迎えに行ってもらっている。
 先行オープンを迎えるつもりで、早起きして隅々まで清掃をし、花を活けて場を整える。ふと、奥の間の箪笥に飾ってある、静枝の写真が目に留まる。おばあちゃん、お願い、力を貸してね……しばし目を閉じて、天国の静枝に向かって祈る。写真の中で笑っている静枝の笑顔があまりに優しく、美佳は少し泣いてしまう。
 約束の正午少し前に、利恵は到着する。前回のような夜の衣装そのままではなく、落ち着いた白い長袖ブラウスと紺のスカートを身につけているせいか、威圧感はかなり薄らいでいる。化粧と香水も、美佳の好みよりは少しきつめだが、鼻を背けたいほどではない。
 挨拶をし、縁側に面した床の間に通す。事前にも伝えておいたが、話の前に料理を供したいと告げる。
 ウエルカム・ドリンクとして、セージのハーブティーを出す。ちょっと独特な香りはあるのだが、思ったより後にはひかず、清涼感は大きい。利恵は特に感想は述べないまま、ガラスコップに注がれた、少し緑がかった黄金色のハーブティーを、綺麗に飲み干してくれていた。
 すでに暑さはかなり和らぎ、解放した縁側から、時折涼しいくらいの風が吹き込む。ぼんやり視線を外にやり、明るい茶色に染めた髪を風に揺らしている利恵の横顔を見て、やっぱりちょっと麗奈ちゃんに似てるなと美佳は思う。
 手際よく調理し、プレートに載せた料理を運ぶ。
「なんやねんこれは。うちをバカにしてんのか!?」
 利恵の前には、軽めに盛られたご飯、味噌汁、キュウリの漬物、卵焼きの四品だけが並べられている。
「召し上がって下さい。これは、あたしが人生で一番感動したお料理を、できるだけ再現したものなんです」
「?」怒って席を立ちかけた利恵だが、美佳の真剣な面持ちを見てひとまず落ち着きを取り戻す。ふっと一息吐いてから箸を取り、卵焼きに口をつける。混ぜ込まれた葱が、切り口に鮮やかな緑を見せている。
「これは……」
「麗奈ちゃんに教わった卵焼きです。どうしてもこの味が出せなくて、麗奈ちゃんに聞いたら、『先にマヨネーズたっぷり入れてまうねん』って笑ってました。お葱は、葱嫌いの自分が食べられるように、オカンが入れてくれよったって」
「うちが教えたった卵焼きか」
「ここに滞在していた麗奈ちゃんが独り立ちする時、“卒業試験して欲しい”って、このメニューをあたしに出してくれたんです」
「これを、麗奈が……」
「ぎょうさんよう覚えられへんから、ご飯と味噌汁だけ、頑張って覚えたって。美味しくて……すごく美味しくて、あたし感動してしまって」
 利恵は茶碗を手に取り、白米だけ口に入れると、ゆっくりと噛みしめている。
「あたし、ご飯炊くのと味噌汁なんか、ちょっと練習したら誰でもできると思ってたんです。とんでもない間違いでした。麗奈ちゃん、うちの祖母につきっきりで、お米の研ぎ方、水の種類と加減、給水の時間、釜炊きの火加減と時間、炊き上がってからの蒸らし、一つ一つを熱心に教わって、長い時間をかけて自分のものにしてたんです。あたしがいい加減に炊いたご飯とは、色艶も歯ごたえも味も香りも、ぜんぜん違いました。料理に対するひたむきさでは、彼女にとても敵いませんでした」
 次いで利恵は、味噌汁の椀を取って口をつける。
「できるだけ自家製の食材を使いたいのですが、具の大根だけ、旬ではないのでスーパーで買いました。味噌は祖母と麗奈ちゃんが一緒に仕込んだ五年もの。熟成されて良い風味が出ているはずです。お米は、新米は間に合いませんでしたが、去年うちの田んぼで採れたものを、今朝精米しました」
 説明を聞きながら、利恵は無表情のまま、黙って口を動かしている。
「次に、あたしが店で出すつもりのメニューをお出ししたいのですが、まだお腹は大丈夫でしょうか?」
 利恵は小さくこくりと頷く。食前に飲むセージのお茶が、味覚を刺激した上に食欲を増進してくれることは、自分の身体でよく分かっている。
 下ごしらえは済ませてあるので、ものの数分で調理を終え、利恵の元に運ぶ。囲炉裏の間に控えて見守ってくれている健吾と、軽く頷き合う。
 山菜と夏野菜の天ぷら、ジャガイモのバター焼き、エンドウ豆の豆腐、キュウリと大葉の酢の物、生野菜のサラダ、梅の甘露煮と、アキラが覚えていてくれたメニューを中心に組み立ててある。
「ランチのAセット。メニューは日替わりになります。今お出しした野菜のほとんどは、今朝子供達と一緒に収穫したものです。天ぷらは天つゆでもお塩でも、お好きな方で召し上がって下さい」
 ご飯がなくなっていたので、確認してから軽くよそう。お茶は冷やしすぎない京番茶を用意してある。
「この店で出す料理は、なるべくこの花城で採れた食材を使用して、作ろうと思ってます。幸い、わたしのツレが、良心的な自然農を営む農家で働いてまして、上質で美味しい食材が豊富に手に入るんです」
 特に好き嫌いは確認していなかったが、利恵は休めることなく箸を動かしてくれている。
「祖母の人柄に惹かれて、この家にはたくさんの人が集まってきました。麗奈ちゃんもそんな一人でした。祖母の、派手ではないけれども、真心の込められた料理は、誇張でなく、たくさんの人たちを救いました。あたしはまだまだ、その域には程遠いのですが、祖母の示してくれた真心を胸に秘めて、ここで皆さんに料理を提供していこうと思っています」
 その後しばらく、様子を気にしながら別室に控えていた美佳は、頃合いを見計らって、皿を下げに行く。かなりボリュームのあった料理を、利恵はほとんど残さず食べてくれていた。
「利恵さん、まずあたしから、お話しさせていただいてよろしいでしょうか」
 美佳は利恵に対峙すると、背筋を伸ばして正座し、そう口を開いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?