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春は遠き夢の果てに(十七)

     十七

 心地良いまどろみから、ふと目覚める。
 少しぼんやりしたまま、周囲を見渡す。記憶がぼやけているが、頭上を占める満開の桜を目にして、そうだ、お花見をしていたんだと思う。
「起きた? よく寝てたね」
 桜の幹にもたれてゆったりとくつろぐ黒髪の女性が、そう語りかけてくる。ついさっきまで、彼女によく似た黒目勝ちの瞳を持った少女と、どこかで逢っていた気がする。
「う~ん、めちゃ寝てた……。夢見てたわ」
「どんな夢?」
「はっきり覚えてへんけど、お下げのめちゃ可愛い女の子と逢ってた気がする……」
「いいじゃん。初恋の子か誰か?」
「う~ん、そうなんかなあ。知ってる子のような、知らん子のような……。相思相愛やった気もするけど」
「へえ、良い夢じゃん」
「いや、切ない夢。別離の夢」
「そうなんだ」
「ちょっとおれ、顔あろてくるわ」
 そう言って、すっくと立ち上がると、10mほど離れた川岸に移動し、ばしゃばしゃと顔を洗う。
 大きく伸びをして、遠方を眺める。独りで川遊びをしている優希と目が合って、大きく手を振り合う。陽射しはまだ暖かいが、かなりオレンジ味を増してきている。
 ゆっくり引き返すと、美佳の隣りに腰掛け、同じように幹にもたれかかる。風が起こって、雪のように花びらが舞う。どこかで、子供たちのはしゃぎ声がする。不意に、世界は完璧に調和していることに気付き、なぜかまた泣きそうになる。
「おばあちゃん、よく寝てる」
 酒に酔ったわけでもないのだろうが、静枝はビニールシートの上で横になって、静かに寝息をたてている。
「なんだか幸せそうに笑ってる。良い夢でも見てるのかしら」
「そやなあ」
「ねえ、健吾」
「ん?」
「あたしね、決心したことがあるの。気持ちが鈍らないうちに、あなたに聞いてもらいたいんだけど、良いかしら?」
「うん、聞きたい。何かな?」
「あたし、会社辞めて、お料理屋さん、ひらこうと思ってるの。ここで、おばあちゃん家で。人を楽しませる、幸せにできるお料理を、作ってゆきたいなって。まだまだ目指す道は遠いし、おばあちゃんにも話せてないんだけどね」
「ええやん! 応援するわ!」
「ほんとに? ありがと」
「かあちゃ~ん!」
 弾むような足取りで、優希が草地を駆けてくる。ダッシュの速度を緩めないまま、転がるように美佳の胸に飛び込む。
「を~ゆき~。あんたかわいいな~。川で遊んでたん? たのしかった?」
 愛しい我が子をしっかりと抱き締め、ゆらゆらと揺さぶる。
「うん、あそんでた」そう言いながら、お眠(ねむ)の時間なのか顔をごしごし美佳の胸に擦り付ける。
「なあかあちゃん、ばあちゃんようねてはるなあ」
「ほんまやなあ、よう寝てはるなあ」
「もうおきはらへんで?」
「きっと気持ちええんやわ。もうちょっと寝かしといたげて」
 旋風が起こり、花吹雪が大きく渦を巻く。思わず空を見上げる。驚くほど高くまで、花びらは円を描きながら舞い上がってゆく。
 日が少し傾いたせいか、桜花の連なりの陰影が増し、さらに鮮烈に胸に迫ってくる。やわらかい陽射しに抱かれている幸福感が全身に満ち、また少し泣きそうになる。花神に嘉されたようなこの美しい春の一日を、きっと生涯忘れないだろうと、美佳は思う。

       第二部『春は遠き夢の果てに』 了


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