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春は遠き夢の果てに (十五)

     十五

 桜並木をゆっくり引き返していると、ちょうどゆるやかなカーブから姿を現した静枝と優希が目に入る。目敏くこちらをみつけて、大きく手を振る二人に、美佳も手を振り返す。春爛漫の、夢のような田園風景の中に佇む祖母を見ているだけで、なぜか涙がこぼれそうになる。
「そろそろええ頃合や思て出かけた時に、ちょうど石黒先生来てくれはってね、お弁当持ってもらいましたんや」
「美佳ちゃん、ひさしぶりやな」
 ごま塩の5分刈り頭にギョロ眼を光らせた診療所の石黒は、見た目はいかついが、人を見詰める視線には慈父のような温かさがある。お礼を言って、藍色の風呂敷に包まれた、ずしりと重い重箱と水筒を受け取る。
 初対面の健吾とは、どこか通じる部分も多いようで、お互いに好感を持ったことが雰囲気で伝わってくる。酒蔵の御曹司(?)である健吾が「今日はとっておきをもってきてるんですよ」と言うと、「そらご相伴にあずからんといかんな!」と、酒好きの石黒は相好をくずしている。
 もう二三軒、往診があるという石黒と、後で合流することを約束して、いったん別れる。先生が大好きな優希も、喜んで手を振っている。
「じゃあぼく、お酒とってきますんで」
「白天梅?」
「おお、白天梅! 信吾に言うてええとこ詰めさせたから期待してや!」そう言って、健吾は軽い足取りで駆けてゆく。
「ぜんぶ話せましたんか?」健吾の後ろ姿を見送りながら、静枝がそっと問い掛ける。
「うん、話した」
「受け止めてくれはった?」
「うん。受け止めてくれた」
「そう。よかったね」
 美佳の黒目勝ちの大きな瞳にみるみる涙が溢れ、ぽろっとこぼれ落ちる。
「うえ~ん、おばあちゃ~ん!」
 子供みたいな泣き声をあげて、美佳は静枝にすがりつく。
「あらあら、おかしなかあちゃん、赤ちゃんみたいななあ」
「うえ~ん、かあちゃ~ん!」
「あらあら、あんたもかいな」
 何か感じるところがあったのか、優希も真っ赤なほっぺに玉のような涙をこぼしながら、二人の脚にしがみついてくる。
「ほんまに、こまった母子ですなあ」そういう静枝の双眸からも、涙がこぼれ落ちる。限りなく愛しい孫たちを、静枝は心を込めて抱きしめる。

 川べりの一番見晴らしの良い場所にオレンジのビニールシートを敷いて、席を整えおわった頃に健吾が到着する。大きいクーラーボックスと白い包みを両腕に抱えている。
「さあ、はじめましょうか!」
 パン! と一つ手をたたいてから、静枝は風呂敷包みを解いて、三段の重箱をシートに並べる。
「おお~っ!」「やた~っ!」
 思わず歓声が出てしまうくらい豪勢なお弁当が姿を現す。一段はつやつやと輝くおにぎり、一段は和風の定番メニュー、もう一段は優希の喜びそうな洋風のメニューが、彩りも鮮やかに満杯に詰められている。
「まずは乾杯しましょうか。健吾さん、いただいてよろしいかしら?」
「はい。静枝さんにぜひ味わっていただきたくてお持ちしました」そう言いながら、クーラーボックスから緑色の中ビンを取り出し、にっこり笑って見せる。
「を、ちょうど四つあるわ」まずは素焼きの酒器にお酒を注いでから、淡い桃色のぐい飲みを、四人それぞれの前に置く。
「あ、優希の分は……」
「梅ジュースもってきてるから大丈夫」
「至れり尽せりで」
 それぞれに注ぎ合ってから、静枝の音頭で杯を高く上げる。
「優希、おたんじょうびほんまにおめでとう。健吾さん、遠いとこ来てくれてありがとうね。美佳、いつもようようお疲れさん。今日はほんまに最高の日! みんなそれぞれの門出を祝って。乾杯!」
「かんぱ~い!!」
 皆顔を輝かせて、それぞれの杯を飲み干す。
「はあ~っ、おいしい……。なんて美味しいお酒なの、健吾さん」
「ありがとうございます。静枝さん、いける口なんですか?」
「いける口どころか、あたしも敵わないくらい飲むのよ。もともと酒蔵の娘だし」
「マジですか! ではどうぞどうぞ。あ、美佳ちゃんビン渡しとくから手酌でいってな」
「失敬な……っていうかまあそっちの方がうれしいけど。じゃ遠慮なく一人でいっときま~す。つぶれたら介抱よろしく」
「君つぶすのタンク一個分くらい必要やろ」
「失敬な。傷ついたんで信吾さんにあたし専用タンク一個請求しとこっと」
「ほんまにそれくらい消費しそうなんが怖いわ」
「なあ、おなかすいた!」
「そうよね優希、ごめんごめん。でもちょっと待ってね。まず健吾さん、どうぞ」
「じゃあ遠慮なく。いただきます!」
「いたあきま~す!」
 健吾が選んだのは中に魚が巻いてある昆布巻きだった。はじめはにこやかに噛み締めていた健吾だったが、しだいに口の動きがゆっくりになり、やがて止まってしまう。
「……あ、あれ? なんなんやろ……」
 戸惑ったような表情のまま、ぽろっと涙をこぼす。二の腕で涙を拭いながら、胸中にじんわりと沸き起こる不思議な情動を味わっている。
「ふふ、やっぱりきちゃった?」美佳はちょっと面白そうに、健吾を眺めている。「たまにいるのよね、おばあちゃんのお料理食べて泣いちゃう人。健吾さん、波長が合いそうだから、きっとくると思ってたの」
「おいしい……。ほんまにおいしい……。でも、それだけやないんですよね。身体の芯のほうから、染みてきてるんですよ。なんなんやろ……」
「歓喜?」
「ああ……。うん、そんな感じかも……」
「食材がね、歓喜してるのよ」静かに笑いながら美佳は言う。「あたしね、やっと分かったの。なんでおばあちゃんのお料理はあんなに美味しいのか。なんでおばあちゃんのお料理はあんなに人を元気にするのか。食材が喜んでるのよ。こんなに美味しい料理にしてくれて、こんなに美味しく味わってくれて、ありがとう……って」
「あたしにとってお料理ってね、神様へのお供え物をご用意することなの」静枝も静かに笑っている。「今日は食べてくれるみんな、健吾さん、美佳、優希、そしてあたし自身もふくめて、大切なたいせつな神様。いつも独りの時にもね、大切なあたし自身をもてなす為に、心をこめてお料理するのよ。もっと言うなら、食材も、調理器具も、あたしにとっては神様そのもの。だって考えてみて。こんなに豊かな食材をいただけるのって奇蹟じゃない?! このいのちが、どれだけの人の手を経てここにきてくれたのかって、そう思う度に有り難くって、ありがとう、ありがとうって、感謝しながらお料理してるの」
「静枝さん、なんや泣いてたら、めちゃお腹すいてきました」
「食べて! お腹いっぱい!」
「いただきます!」


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