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「どうする家康」第14回 阿月の死を前にした三英傑の三者三様~クローズアップされた信長との関係性と秀吉の異能~

はじめに
 「どうする家康」第14回は、信長を気遣い宴席を盛り上げる、不自然な状況から浅井長政の裏切りをそれとなく感得する直観力、家臣の意見を十二分に吟味、苦手な信長への冷静な諫言(後に激高して喧嘩になりますが)など家康の成長を窺わせる場面が多くありました。
 家康が見せる様々な表情(松本潤くんの好演)をとおして、これまでの出来事が家康の中で血肉となっていることを見せてくれました。

 そして、金ヶ崎の刻一刻と迫る状況の中で、これまで度々描かれてきた信長、秀吉たち織田方のキャラクター性を再確認させ、今後の展開の伏線として置かれていきました。この点は、第13回とも似ていますね。

 こうした男たちの様々な思惑の一方で、クローズアップされたのが、第14回の裏主人公であるお市の侍女、阿月です。今回、彼女が家康らと直接絡むことはほとんどありません。にもかかわらず、タイトルバックの小豆(阿月との掛詞)、冒頭に挿入された走りが得意という阿月の過去の回想シーンなど、架空の人物かつゲストキャラとしては破格の厚遇です。
 そもそも、「朝倉家記」に載る、両端を縄で括って結び切りにした陣中見舞いの小豆袋でお市が浅井長政の裏切りを知らせるという講談的逸話を何故、阿月という女性キャラクターに託したのでしょうか。
 そこで今回は、浅井長政裏切りを巡る男たちの在り様と阿月との関係から第14回を考えてみましょう。


1.裏切りから見えるキャラクター像と今後の展開
(1)心によどみない実直な御仁、浅井長政
 第14回の背景となる朝倉攻めと浅井長政の裏切りは、研究上でも未だに明確な理由が解明されておらず様々な説があります。それだけに、ここはドラマの作り手たちの想像力による腕の見せ所と言えます。
 本作での長政の裏切りは、第13回での展開をしっかり踏まえたものとなりました。前々回のnoteでも触れたのは、次の二点です。一つは、彼が信長の心穏やかで誠実な義弟であり、家康と立場も性格もよく似ているということ。もう一つは、長政にはこの乱世を大局から見られる視野を持っていて、それが家康には欠けているものだということです。


 家康が未だ持たない長政の大局的な視点から見えたもの、それは信長の武力により逆らう者すべてが蹂躙される過酷な天下統一でした。不幸にもその実直さと優しさゆえと大局的な視点で見えた地獄を実現させないため、信長を裏切らざるを得ない。更に彼は自分たちも例外なく滅ぼされるとお市に告げていますから、これは身を守るためでもあるのです。
 この長政の遠望は、思い込みとは言えません。今行わんとする朝倉攻めも覇道そのものですし、また既に第1回の時点で「武をもって治めるは覇道 徳をもって治めるのが王道」を理想とする義元に「織田信長という男、戦を好みまさに悪しき覇道を進む者」と看破されています。長政の見解は義元の台詞と響き合い、信長の根本的な性質を露わにしていると言えるでしょう。長政の知見は、一定の妥当性があるのです。


 勿論、信長は心から世を憂いているから、将軍の元で天下統一を成そうとしているのかもしれません。また家康や数正には暗愚にしか見えない将軍義昭も実はそれだけではないかもしれない(個人的には、単なる暗愚ではドラマ的に勿体ないと思います)。ですから、額面通りが信長の本心か否かは、強面が過ぎて今のところはわかりません。
 更に信長の理想や心情にかかわらず、武断的な行為は覇道にしかならない。だから、長政は信長を信じられなかったのですね(これは家康が代弁して信長に言っていますね)。だから、義弟という立場から彼に物申して軌道修正させる道を選ばず、謀反を選んだ。正しく、(コーエーのゲームのタイトルのごとく)信長の野望に恐怖したのでしょう。


 ただ、ドラマで描かれる弱肉強食の戦国時代をいかにして収めていくのか、この一点だけを見れば覇道は一つの正解です。それは、ドラマでは今川家の滅亡によって説明されています。そして、皮肉にも長政が、信長の覇道による未来を予測し、恐怖したこと自体が、その有効性を更に立証してしまっています。
 一方でそれを憂うる長政の気持ちも当然でしょう。その両者の落としどころとなる対案を見出せず、奇襲による裏切りを選択せざるを得なかった。彼の英断の裏にある優しさと穏やかさと義理人情が、最終的には一番避けたかった浅井家滅亡を招くことになります。
 つまり、大局的な視点を活かせなかったことが長政の不幸へとつながっていくのです。そしてこれは、同じく信長の義弟である家康のもう一つの姿なのです。


 ところで、「心によどみない実直な御仁……だからこそ裏切る、ということもあるのでは?」と看破し、長政の本心の詳細を察したのが、石川数正であったのは意味深ですね。
 三河に直接的な利益をもたらさない今回の朝倉攻めについて、忠勝を初め三河家臣団の意気は上がっていません。蟹を食べる時だけが喜びと言ってもよい有様の中、彼らに「幕府」「天下統一」を説いて、その意義を語るのが今回の数正です。つまり、三河衆の中で彼だけがそれなりに大局的な視点を持っています。
 このことは、近視眼的な三河衆の中で彼が孤立してしまう可能性を示唆しています。そして、その大局的な視点を持ち「心によどみない実直な」石川数正は、いずれ家康を裏切ることになります。何気ないですし、当人らにも自覚はありませんが、数正の今後についての伏線も張られているのが巧いですね。

(2)理解者のいない孤独な信長
 それでは、何故、信長は「戦を好みまさに悪しき覇道を進む」のでしょうか。「この世は地獄じゃ」(第2回)と述べた信長は、実母の土田御前に嫌われていましたし、また父の死後、織田家を二分してしまいました。彼は家督争いで弟の信勝を殺しています。命がけで刀を振るわねば、身内にすら殺される状況だったのです。
 そして、実はこの点においては、武田ルシウス信玄も同様です。信玄もまた父に忌み嫌われ、その父を追放していますし、また後年には長男とも対立しています。
 本作で武断派の象徴とも言える二人は、過酷なお家騒動を生き抜いた人たちなのです。つまり、彼が武をもって即決即断で動くのは、弱みを見せたら終わりだという信念が形成されているのでしょう。「弱き君主は害悪」と今後の予告編で嘯く信玄の言葉は、それを象徴しています。


 しかし、その結果、信長は天才的な武勇を誇る武将となり自信を深めた反面、ほぼ誰も信用しない人間となっているようです。股肱の臣のように描かれている柴田勝家すら、お家騒動のときは弟、信勝に付いていた人物です。秀吉同様、有能だからこそ置いている臣なのでしょう。
 そして、今回、盛大な喧嘩の中で家康が指摘したとおり、後にはイエスマンしかいません。その最たる人物が明智光秀というのが、第14回の収穫でしたね(苦笑)朝倉義景の不穏な動きに知ったかを発動して信長に気に入られる見解を示すおべっか使い、信長の威光を傘に家康を蔑む横柄さなど智謀の将とはかけ離れた人徳の無さと人望の無さ。信長を裏切る疑心暗鬼とその後の三日天下が約束されたかのような人物造形です。光秀をしてこれですから「どうする家康」における織田家には、信長の信頼に足る人物はほとんどいないのだと察せられます。

 それだけに大喧嘩の後、家康のもとにわざわざ出向き「徳川様がおられる時だけでござる。我が殿の機嫌がよいのは。どうか、引き続きお供くださいませ」と懇願する柴田勝家の好漢ぶりが光りますね。彼は浅井家滅亡後、お市を娶ることになりますが、結果は…。義侠心の美男子長政といい好漢権六といい、お市殿はつくづく男性の人間性を見抜くことには長けていますが、それが戦国の世を生き抜く絶対的資質ではないのが不幸ですね。歴史は好漢にではなく、利己的な秀吉に天下を取らせます。


 話を戻しましょう。このような信長ですから、自身が信頼に足ると見込んだ二人の義弟との朝倉攻め(信長曰く「北国見物」)は、本作では本当に物見遊山を兼ねていたのでしょう。家康の「蟹ヶ崎」のダジャレに無邪気に笑う様などは象徴的ですね。共に天下統一の夢を叶えようと語ったのは本心からでしょうし、また久しく心を許すこともなかったから喜びも格別だったろうと察せられます。
 それだけに家康からの浅井長政裏切りの可能性は信じられませんし、更にはその課程で家康と大喧嘩になった挙句の家康の捨て台詞「分からん。お前の心のうちなど分かるもんか!」にショックを受け、呆然とし狼狽える始末は衝撃的です。あれだけ、真面目にからかい、痛めつけ、遊び続けていながら、その裏にあったのは「家康だけは自分を分かってくれる」と信頼そのものというオチ。
 恐らく、自分がこんなに気に入っているんだから、家康も自分を気に入っているに違いないと信じて疑わなかったのでしょう。
   そのことは、鷹狩で「お前と気ままに鷹狩に行くのも」の発言や朝倉攻めをサプライズで誘う嬉しそうな姿によく表れています。何なら同格で結ばれたことになっている清州同盟も彼の個人的な厚遇が入っているかもしれません(笑)何にせよツンデレが過ぎますね。

 因みに家康の浅井長政裏切りの諫言自体は頼もしく育った家康の姿ですが、激昂して大喧嘩になったのは成長ではなく、竹千代の頃に戻ったのでしょう。彼は白うさぎの頃から、相撲のときのように追い詰められると本気を出す瞬発力を備えていました、というか当時の唯一の能力。そして、自分の言葉を素直に聞き、立ち向かえる竹千代を信長も気に入っていたのです。
 だから、去り際に家康は「本気で案じただけなんじゃ」とかわいいことも言っています。つまり、この大喧嘩、後に家康が「なぜもっと早く止めてくれなかった」というほど致命的になる可能性があるのですが、一方で二人の甘えた関係が薄く横たわっているとも考えられます。あの二人の間柄でだけ成立する面罵なのです。
 そして、この無条件なまでの信長と家康の信頼関係を最初から面白く思っていないのが、秀吉であることは改めて押さえておきたいところです。


 ただ信じていたものに裏切られた感の残る信長は簡単ではありません。彼の相手への信頼とは、長政が恐れているように「自分の意向を裏切らなければ」という条件付きの一方的なものです。また、自分への自負、自信過剰から相手が裏切るはずがないと思い込む節が見られます。ですから、裏切りに対する耐性が低く、何よりも自分のプライドが傷つけられます。こういう人が相手への信頼を取り戻すのは厄介です。

 家康が三河一向一揆の中で達観した「裏切られても相手を信じるしかない」という信頼とは全く違うものです。家康のこれは、やがては双方向的な信頼につながりますが、信長にはそうした関係は築けません。覇者とは、どこまでも孤独なのです。
 そして、飛躍して言うならば、これこそが第1回で家康が義元に述べた「覇道は王道に及ばぬものにございます」ということかもしれません(勿論、当時の家康は上っ面は述べただけですが)。


2.女性の生きづらさを託された阿月
 「どうする家康」では、家康の成長という本筋と共に、側室問題や田鶴の憤死のような女性の生き方に焦点を当てるということが度々、挿入されます。
 今回は阿月をとおして、下々の女性の苦悩が描かれました。故郷金ヶ崎での貧しさは勿論のこと、同世代の男性の誰よりも走ること(ちゃんとナンバ走りでしたね)が得意であるにもかかわらず、「女の癖に」と邪険にされ、父親からは女性らしくあることを着物と立ち振る舞いによって矯正されます。そして、女性らしさを強要された結果は、父による娘の売り飛ばしです。

 逃亡した先でお市に出会わなければなければ、彼女は本多正信の幼馴染、お玉(第9回)と似たような末路を辿っただろうことは想像に難くありません。それだけに彼女の命を救い、大切に扱ってくれたお市様への忠義の心は強いものがあります。ですから、お市の願いである彼女の命の恩人家康を救うために命を懸けて、40キロ余りの道を駆け抜け、浅井長政の裏切りを伝えようと決断します。何故なら、彼女にはそれが出来るからです。
 また当初から「自分が男であったなら」というお市の嘆きは今回も繰り返されます。阿月はお市に変わって勇躍するのです。

 その阿月が最も印象に残る場面は、彼女が夜明けの金ヶ崎に着き、山間から金ヶ崎の海を遠望するシーンでしょう。
 このシーンでは、久々の故郷に使命でたどり着いた阿月の表情だけでなく、その傷だらけになった身体をその素足、腕と順にゆっくりと映し出します。このわざわざのカメラワークにはこの使命の過酷さだけではなく、女性であるがゆえに味わうことになったその心の傷、彼女の人生そのものが投影されています。だからこそ、彼女は故郷を見下ろしながら、身体を酷使した痛み、命の危険への恐怖、使命を果たせそうである満足感と安堵、故郷で味わった数々の屈辱と哀しみ、それらが一気に押し寄せた複雑な表情を見せます。その万感の思いを伊東蒼さんが見事に表現し尽くしてくれています。
 その彼女を夜明けの光が照らすという構図が美しい。ここには、女性であることを矯正、更に強制されてきた彼女が、本来持っていた能力を全力で発揮したこと、それによって名もなき一人の民が歴史を左右する重大な使命を果たしたこと…つまり、彼女の人生に意味や意義という光が射した瞬間が表現されています。彼女は自分の本然を発揮し、彼女の人生を走り抜けたのです。
 ただ、その傷が彼女の人生を示すように彼女は既に限界です、意味のある人生を駆け抜けた彼女に待つのは死だけというのが哀しいですね。本来ならやっと人生が始まった瞬間ですから。


3.阿月の遺体を前に見せるそれぞれの本性
(1)プライドにこだわる信長
 阿月の決死行によって伝えられたお市からの「お引き候へ」(撤退して)の言づてによって浅井長政の裏切りは確定しました。力尽きた阿月の亡骸が安置された家康の本陣に、秀吉らを連れた信長が表れます。
 しかし、なお信長は逡巡します。自分の天下統一への第一歩という夢の第一歩が義弟の裏切りによって崩れそうである事実、安易に義弟を信じてしまった己の甘さ、ここで撤退した結果、信長弱しと見た諸侯が彼に従わないばかりか逆らってくる可能性、信じ切れない自分の家臣たちへの求心力を失うかもしれないという織田家そのものの問題…金ヶ崎撤退によって生じる数多の問題はどれも自信家、信長には認めがたいことです。自分のこれまでの人生を否定されたに等しい。
 
 更に理解者であることを拒否された最も好きな弟分の言い分の正しさを認めることが、これまた腹立たしい。即決即断の信長の憤懣やるかたなさが、仕草と表情に表れています。自分のプライドをいたく傷つけられたこと、そのことに彼は支配されています。
 焦れた家康は「逃げんか、あほたわけ」と叱咤します。なおも抵抗する信長に、命がけで届けられたお市の言葉を信じるよう促します。家康から信長への「あほたわけ」は、今回、二度目ですが、こちらは激昂してつい言ってしまった最初とは違います。信長への思いも自身の保身もあるでしょう。しかし、それ以上に、そこに横たわる阿月の命がけの行為を無にしないための発言なのです。そのことは家康自身の口から「阿月の命を無駄になさるな」とはっきり言及されていますね。
 「一生懸命頑張る者を笑うな」「民や家臣を守る」…甘っちょろいとも言える彼の弱者への眼差し。これを家康の美徳として、自身のプライドだけにこだわる信長との明確な差としているのです。


 さて、家康の換言にようやく撤退を決意した信長は秀吉に殿(しんがり)を任せ、家康には「お前は好きにしろ」と言います。家康は信長の部下ではありませんし、対等の同盟者に対して、そして兄貴分としての意地を見せたようにも思えるこの発言。額面通りではなく、含みがあるのではないかという気もします。
 先にも言ったように、裏切られ耐性のないプライドの高い人物からの信頼回復は難しいのです。こういう人は次に裏切られてまた傷つくことを恐れ、相手が確実に信用できるかを一々確かめないではいられないからです。大喧嘩で放った「分からん。お前の心のうちなど分かるもんか!」が致命的なのは、その点です。
 だから、「お前は好きにしろ」には裏切れるものなら裏切ってみろと試している可能性があるのです。第15回予告編でも、家康自身がそれを察しているような様子がありますしね。


 そして、この試練、もしかすると信長の家康への偏愛が過ぎるがゆえに際限がなくなるかもしれません。愛憎は紙一重ですから。だとすると、通説に従う「どうする家康」とも思えませんが、一方で瀬名と信康の死にヤンデレ化した信長が何らかの形で関与するかもしれない。とても、怖い展開も想像されますね。これは、外れて構いません(笑)
 因みに信長が死ぬまで同盟を続けた家康はこの試練に耐え続けます。そして耐えきれなくなるのが光秀です。あの偉そうで感じの悪いおべっか使い光秀にも危機は迫ります。


(2)利己的で合理的な現実主義者、秀吉
 今回、最後の最後で全てをぶち壊すように印象を残すのが秀吉です。
殿(しんがり)の栄誉を任された秀吉ですが、そこまで浅井長政が迫る今、状況は絶望的です。流石の秀吉も「ああ!ああ!ああ、死んだ!あー、あー、こりゃ死んだわ!」と恐慌に陥っています。
 しかし、ここからが彼の真骨頂。のたうち回り続ける短い間に「生き延びるためには家康が必要→利用する口実と方法は恫喝」と算段してしまう。秀吉は、その恐るべき頭の回転で、自身の錯乱状態すらも自分の欲望(ここでは出世)を満たす燃料に転換できるという徹底的に合理的な現実主義者として描かれます。
 だからこそ、わずかの間に立ち直り、「ここでもし生き延びれば、わしゃ、まっとまっと上に行けるがや」と見通しを立ててしまいます。
 しかも、秀吉のこの見通しは正確で、次回描かれる金ヶ崎退き口の撤退戦による論功行賞では黄金数十枚を得ています。そして、勇猛果敢な武断派の武将から謀略の士として軽ろんじられた秀吉が、勇将の一人へと転身できたのもこの成功によるもの。結果的には、彼が天下人になるための信用を周りから得るターニングポイントとなります。

 
 それにしてもこの秀吉の頭の冴えを支えるものはなんでしょうか。家康に「クズ」と言われるまでの、異常なまでの自己本位な生存本能だけでは説明がつきません。彼が立てる対策と見通しは正確だからです。

 彼は、登場した当初から合理的な現実主義者です。家康が清州に来た際、頼まれもしないのにペラペラと織田家家中の実情を喋りまくります。これは、彼特有の相手を煙に巻くブラフですが、一方で彼が実に人をよく見ていて、その性格に応じた態度を取っていることがわかります。勝家には蹴とばされて喜ぶ下男を、信長には太鼓持ちの道化を、それぞれ演じていますが、いつも目が笑っていません。
 彼にとっては、主君信長も含めて生きている者すべてが自分のための道具に過ぎません。結果さえ得られるのであれば、自分のプライドなぞどうでもよい。ある意味、自分の理想やプライドにこだわる信長は余程人間的です。彼は言わば自身の欲望を満たすためだけに動くマシーンのような面を持っています。
 しかし、一方で彼は、家康の前では度々その本性を見せ、恵まれたお坊ちゃん大名の浅はかさと甘さを低能と小馬鹿にしています。それは事実そう思っているのでしょうが、一方で何の努力をすることもなく地位を持ち、そして信長に気に入られ、お市さえも与えられそうな家康への嫉妬があるのではないでしょうか。だからこそ、とことん彼を巻き込む。
 
 
 しかも、人をよく見ている彼はどういう方法が家康に最も効き、そして奮戦するかを知り尽くしています。今回、家康を撤退戦に巻き込むのであれば、懇願や泣き落としという手もあり、そのほうが穏便ですが、敢えて「裏切ったと言いふらす」と恫喝という手段を取っています。阿月のような小者の死すら悼む優しい彼ならば、人非人のような振る舞いを最も忌み嫌い、怒ります。そして秀吉への怒りから奮戦して生き残ろうとするのは必然でしょう。それ自体が、秀吉の生存率を高める。だから、恫喝という手段を取っているのです。
 しかも巧妙なのは「あんたのためになる」という一言です。彼もまた一種の大局を見る目を持っている。だから、ここで信長に恩を売ることが前夜の失点を取り返すことでもあるというのですね。
 そして、もしかするとこの一言があるからこそ、家康は次回、長政の誘いに乗らないのかもしれません。となると、図らずも家康に「正しい」選択をさせたのは秀吉ということになります。

 ただ、あくまで彼は自分の欲を満たすためにやっています、他人の心の底から望むところを理解し、それを利用し、自分の欲望を満たし、最終的に勝利を得るのが秀吉のやり方なのです。勿論、その自分本位と天才性ゆえに、彼もまた自分以外を信用しない人物であり、死んだ小者にすら思いを向ける家康とは決定的に違う人物です。


おわりに

 命がけで使命を果たすため、駆け抜け、若い命を散らせた歴史に名も残らぬ阿月という女性。それは、本作で度々、表現される女性の生きづらさでもあります。その彼女の遺体を前にどう振る舞うのか、それが終盤の展開で描かれました。
 彼女の死をどう扱うのか、これによって信長、秀吉、家康の明確な違いが描かれたのです。一人は自分のプライドを優先し、一人は自分の欲望を満たすため他者を徹底的に利用する。彼女の死を無駄にしないと目を向けたのは家康一人です(因みに長政の信長への恐れから来る裏切りは阿月を死に追いやっています)。つまり、阿月は彼らの本性を映し出すプリズムとしての役割を劇中で与えられていたのです。

 弱肉強食の乱世を生き抜く戦国大名の救いのないゲームで、いかに家康が弱者への眼差しを持ち続けられるか。あるいは変貌してしまうのか。その眼差しを捨てないために何を犠牲にするのか。そうしたことが問われる内容がいずれ来るのでしょう。

 また、「クズじゃな、お前は」で決定的に秀吉を嫌ったことは、後の小牧・長久手の戦いを始めとする長い戦いの始まりとなる心情の導線となりそうですが、一方で最終的に敗北に近い和睦を結ぶことは、家康が秀吉から学ぶものがあるということ。それを薄々見せたのが、今回の第14回と言えるかもしれませんね。その意味でも今後を占う重要な回と言えそうです。

 まずは秀吉と共に行う撤退戦です。最近ようやく実像が見えてきたと言われていますが、秀吉が殿の総大将とか、撤退戦に家康が参加したとかの逸話はあくまで逸話に過ぎないようです。それを敢えて選択したのは、ドラマチックだからでしょう。二人の撤退戦の逸話もありますが、さて、本作の犬猿の二人はどうなるか。そして、信長の偏愛ゆえの家康への試練はどうなるか。予断を許さない次回も楽しみですね。


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