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障害か特性かそれとも個性か

【ダウン症の俳優誕生 業界の変化】

そんな記事を見た。ダウン症の舞台俳優を見たことあったなと思い出した。「チョコレート・ドーナツ」という舞台、育児放棄された障害のある子を保護したいが出来ないそんな世論と偏見と葛藤と愛溢れる作品だった。

本当に凄かった。テレビとかじゃなくて、失敗が許されない舞台でしかもものすごく難しい役。だからこそ彼が演じる必要があったんだと思う。スタンディングオベーションに涙した彼の顔を私は忘れないと思う。言葉では言い表せない、あの場にいた人にしか味わえない会場が「優しさ」で包まれていた感じ。

バイト先で2日で辞めた方がいるという話で持ち切りになった時があった。理由を聞いたらその方は障害者手帳3級取得者だったそう。これは経営なんてやったこともないような学生だから言えるのかもしれないけれど、そんなにもとやかく言う必要があるのかと思った。私には障害があると自覚していること。やってみようと飲食バイトに飛び込んで来たこと。それでも自分には無理だったと判断出来したこと。全てに意味があると思う。
自己理解ってすごく難しくて素晴らしいことだから
これは障害の有無に関わらずの話なんですけど、
でも世間はそれを「変な人だ」「何も出来ない人だ」と言ったりする。
「せめてシフト出した分だけは来れば?」
分かる。でも私には無理だとか足引っ張っちゃうくらいならとか怒られるくらいならとか理由はなんでもいいけど「辞める」という選択肢は決して悪いことじゃないと思う。
1回でいいからお会いしたかったな

まだまだ障害者と呼ばれる方々にとっては息苦しい世の中だなとかもうちょい住みやすい世の中になればいいのにと思うことがある。けどこの考えこそが区別してるとか分けてるとか言われるのであれば私が1番差別人間なのか?とも思ったりね、差別するなと言う訴えが上がっていることこそがもう既に差別なのかな。わかんないや

なぜそんなにも「障害者」という括りを作りたがるのかとつくづく思う。多分面接の書類審査みたいな感じで全てに置いて判断がしやすいからかなとかくらいにか思ってないねんけどさ、本当に書類審査と同じで薄っぺらい紙ひとつでその人がどんな人か分からないのと同じで実際に喋って接して見ないと分からへんやん。
「障害は個性だ」とか言われ始めて、有名人が実はADHDだったとか「障害者に見えない!!」「天才だ!!」みたいな。だんだん偏見が薄れてきてはいる。だからこそ診断こそ受けてないもののこの子多分ADHDの気があるなとかアスペルガーっぽいなとか、多分私HSPの気があるなとか、気づく時は気づくし、かと思えば全く気付かぬまま「私とは合わない人」で終われせてる人もいる。全て自分の気質の傾向の度合いなだけと私は思う。ただその一方で仮に私が「実は発達障害持ちなんです」と告白した時にどれだけの人が受け入れくれるだろうか。「個性」「変わった子」そう片付けられていたものが「病気・障害」に変わった瞬間私が無自覚にしてきた相手にとって嫌だったこと全てが繋がったように避けて行く人だって少なからずいると思う。
悲しい、本当に悲しい。
そして何故か分からないけどその受け入れてくれた子まで周りはあんな奴と連むなんてとか言う。
「行動が理解できない」
理解しなくていいのよ、ただ、ただ受け入れてあげればいいだけ。「これがその子」好きになる必要もなければ嫌いになる必要も、ましてや意地悪する必要なんて一欠片もない。
最後に知的について素晴らしい授業をしてくれた先生が言ってくれた言葉がある。
「価値のない人間なんていない」

あの人はこれができないからだめ。だから価値がない。
そうじゃないよ。本当に価値がない人はこの世界に適応できていない人のことを言う。つまり「生きている」ことこそがこの世界に適応できている何よりもの証拠だと。
じゃあ死んだ人間には価値がないんですかー?とかそれとはまた別の次元の話で、命という物において最大の価値は「生きていること」ただそれだけで能力の有無なんて関係ないって事かなと私は解釈した。

私にはなりたい職業がある。こんなけ話してたら介護職ですか?福祉関係ですか?とか色々言われるけど違うんよ、そこにアプローチしても意味が無いのよ。私が目指してるのはどう共存させるかを考え続けること。そしていわゆる「障害者」と呼ばれる人と「健常者」と呼ばれる人の架け橋になりたい。


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