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都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(14) 無垢の円環

彼女の隣人

1992年11月、佐野元春は1枚のシングルをリリースした。『彼女の隣人』と名づけられたこの曲は、7月に発売されたばかりのアルバム「sweet 16」には収められていない。アルバムのプロモーションのためにツアーをしている真っ最中に、そのアルバムに収められていない新曲をリリースすることは必ずしも得策ではないはずだ。しかもその前月の10月には、テレビドラマの主題歌になった『約束の橋』がボーカルをリテイクし、シングルとして再発売されている。それでも佐野にはこの曲をレコーディングし、シングルとしてリリースしておくべき必要があったのに違いない。
この曲で佐野はいつになくソウルフルにシャウトしている。佐野は、まるで何かを決意したかのように「Don't Cry」と繰り返す。そこには「ぼくは大人になった」とつぶやき、「失くしてしまうことは悲しいことじゃない」と自らに言い聞かせていたそれまでの佐野と比べ、認識の到達度において明らかな進歩が見てとれる。それはアルバム「sweet 16」の中でも『君のせいじゃない』で見せた率直な心情吐露や、『ボヘミアン・グレイブヤード』で自分の中の「ボヘミア気質」に別れを告げて見せた覚醒感に通じるものだが、「これ以上泣くことはない」と繰り返す佐野は、さらにそこからも先へ進もうとしているように映るのだ。
曲の終盤、佐野は、ありったけの雨を、ありったけの痛みを、ありったけの花を、ありったけの力を、そしてありったけの愛を、「君と抱きしめてゆく」のだと歌う。痛みをも受け入れ、だれかと分け合って行こうという認識、それは困難な時期を通り過ぎた者だけが歌うことのできる「願い」であり「祈り」だ。そのような希求を歌うこの曲は、佐野元春の曲の中でも稀有なゴスペルでありブルースなのだ。
この曲はツアーのさなかにレコーディングされている。マクサンヌ・ルイスとメロディ・セクストンという二人の女性シンガーをツアー・メンバーにして行われたこのツアーで佐野は、ソウルやブルースといった音楽が持つ強いエモーショナルでプリミティブな力を再認識したはずだ。そうしたエッセンスを凝縮したようなこの曲を敢えてシングルとしてリリースすることで、佐野はアルバム「sweet 16」でようやく前向きになった自分の精神が、ツアーの中でこれから向かうべき道を見つけたのだということを宣言したかったのではないだろうか。いや、宣言というより、自分の中に、そしてリスナーの中に刻印しておくといった方が正しいかもしれない。この曲は次のアルバム「The Circle」に収録されることになるが、その事実を指摘するまでもなく、これが「sweet 16」と「The Circle」とをつなぐ重要なリングだということは明らかだろうと思う。

もう僕は見つけに行かない

1993年春、「See Far Miles Tour Part 2」と題したツアーを終了した佐野元春は、異例とも言える短いインターバルで次作のレコーディングのためにスタジオに入った。このスタジオ・ワークで佐野は、ハートランドとともにセッションによってレコーディングを進めるそれまでのシステムを大きく変更している。このレコーディングで採られた方法は、佐野があらかじめコンピュータである程度完成させたプリプロダクションを、個別にスタジオ入りしたハートランドのメンバーがなぞって行くというものだった。「スケジュールと予算の関係で」と佐野は後に述べている。
「The Circle」と名づけられたこのアルバムは、同じ年の11月にリリースされた。既にシングル『彼女の隣人』でも示唆されていたように、この作品はソウルやブルースのフレイバーの濃いサウンド・プロダクションとなった。ハモンドの名手ジョージー・フェイムが数曲に参加している。
このアルバムでまず言及されなければならないのは、タイトル・チューンである『ザ・サークル』だ。アルバム後半におかれたこの曲の冒頭で佐野は、大胆にもこう歌って見せた。「さがしていた自由はもうないのさ 本当の真実ももうないのさ」と。この曲を聴いてショックを受けなかった佐野元春ファンはなかったと言ってもいいかもしれない。佐野は続ける。「もう僕は見つけに行かない もう僕は探しに行かない」、なぜなら「時間のムダだと気づいた」から。
いうまでもなく、「自由」や「真実」は佐野元春を語る上で避けて通ることのできないキーワードである。「本当の真実」という言いまわしは初期の『スターダスト・キッズ』に出てきたもので、そこで佐野は「本当の真実がつかめるまでcarry on」と歌っていた。こうしたキーワードは、「つまらない大人にはなりたくない」という『ガラスのジェネレーション』の中のフレーズと並んで初期の佐野がリスナーと交わした「約束」の一部をなす重要な概念なのだ。
しかしそうした概念は佐野が自らの表現を更新し、成長しようとする中で、次第にそれを妨げ、むしろ佐野の手足を縛る方向へと作用し始めていた。初期の三部作から10年、佐野自身はそうした初期の作品を踏まえながらも、その間の自らの成長や周囲の状況の変化に即した表現を求めて走り続けてきたのに、リスナーは結局「決して大人にならない」佐野元春をしか見ようとしなかった。佐野は、交わした約束を一方的に反故にはできない、そのようなリスナーのニーズに誠実であろうという思いと、しかし自分は既に次へ行かなければならないのだという思いとの間で激しく葛藤していたのではないだろうか。「ぼくは大人になった」とことさらに宣言して見せたのも、自らのボヘミア気質を意図的に葬り去って見せたのも(『ボヘミアン・グレイブヤード』)、そうしたくびきをいかに無理のない形で振り切り、自らの現在に即した表現を手にするかという佐野の苦悩の現れに他ならなかったのだろう。佐野はいよいよ切実に、次に進むこと、表現を更新することを望んでいたし必要としていたのだと思う。
かつて佐野が街の片隅にその場所を確保しようとした十代のイノセンスは、恐るべきスピードで商業主義にからめ取られた。そうした情況を目の当たりにし、またそういう場所で闘い続けざるを得なかった佐野にとって、「自由」や「真実」といった概念の自己目的化がはらむ危うさ、うさん臭さは自明だったはずである。佐野は、継承されるべきものとそうでないものを明確に峻別するべき時期に来ていた。

ザ・サークル・オブ・イノセンス

では、この作品『ザ・サークル』で、佐野はそうした「自由」や「真実」を、あるいは佐野の活動のアイデンティティとでもいうべき「無垢(イノセンス)」を、ついに言下に否定するしかないと悟ったのだろうか。もはやそのようなものには何の意味もない、探すべき価値もないと佐野は考えたのだろうか。
ここで佐野がこの曲に与えたタイトル、『ザ・サークル』の意味を考えてみよう。「サークル」とはいうまでもなく「輪」のことである。歌詞の中に一度も現れないにもかかわらず、この曲の、そしてアルバムのタイトルにまでなっている「サークル」とはいったい何を意味するのだろうか。
佐野が本作で提示したのは、「イノセンスの円環(サークル)」というテーマであった。佐野は次のように語っている。

「人というのはとても不思議な成り立ちをしている、と思う。ぼくらは自分の中の無垢さが消えかけたとき新たな無垢さと出会うように運命づけられているかのようだ。ある人は子供をもうけるかもしれないし、ある人は近親者の死に出会うかもしれない。成長の過程の中で無垢さが消えかかった頃、ぼくらは新たな無垢さと出会う。見事なまでに完璧な円環。そこで『無垢さというのは消滅したり終わりを迎えたりするものではなく円環を描いていくものなんだ』という新たな認識が生まれるわけです」(「The Circle of Innocence」ぴあBOOK)

無垢は失われるものではなく、常に円環を描いて立ち現れるという考え、それはとりもなおさず無垢の自己目的化を無効にすることである。なぜなら、無垢が、子供の頃に持っていたのに次第に失われて行くとか、どこか遠いところにあって闘いの結果獲得されるというような種類のものではなく、常にそこにあって円環を描いて僕たちの前に立ち現れるものだとするなら、無垢をめぐるすべての苦悩は結局そこにあるものをいかに見定めるのかという自身の内面の旅に他ならないからであり、それは結局すべての問題を自己の内部の問題として引き受けて行くということだからだ。どこかにある手つかずの無垢、手つかずの真実をあてもなく夢見るのではなく、無垢を求める心の動きを自己の内面的な問題として対峙すること、「子供のような純粋さ」に逃避するのではなく、大人としての責任を引き受けながら「純粋さ」の意味を問い続けること、佐野はこうして「イノセンスのドグマ」から自己を解放しようとしたのだ。
佐野は決してこの曲で「自由」や「真実」といった概念そのものを放棄した訳ではなかった。佐野が断ち切りたかったのは、むしろそうしたスローガンが自動化し、自己目的化することによって、かつてリスナーとの間で交わしたみずみずしく血の通う「約束」が、いつの間にか成長を拒否するための口実になり、自らの表現を硬化させて袋小路に追いこんで行くことだった。そのためにはそうした約束のキーワードであった「自由」や「真実」を強い口調で否定することによって、スローガンとしての「自由」や「真実」に寄りかかっていたリスナーの横面を張り飛ばし、自身の成長ときちんと向かい合うべきことを指摘する必要があった。そしてそこに「インセンスの円環」という考え方を持ちこむことで、佐野はそうした自分との対決に確かな根拠と方向づけを行うことができたのだ。
自由や真実、あるいは無垢といったスローガンは、決して自分の弱さに目を背けて逃げこむための場所ではない。むしろそれは僕たちが自分の弱さや甘さと向き合い、それらをひとつひとつ乗り越えて行こうとするときにそのやり方を問うための厳しいスタンダードのようなものだ。佐野はこのアルバムでそうした概念を新たに位置づけようとしていたのではなかったかと思う。

次回も引き続きこのアルバムについて考えることにしよう。

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