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ロックは誤謬を含んだ音楽だ

さて。

気は進まないが、東京オリンピックの開会式の作曲メンバーか何かだった小山田圭吾が過去に音楽誌などに「告白」していたいじめ加害の過去をほじくり返されて辞任を余儀なくされたできごとについて、自分のサイトでフリッパーズ・ギターやコーネリアスの音楽を好意的に紹介してきた者として、いや、単純にいってファンとして、思うところを(いささか出遅れ感はあるものの)書き残しておこうと思う。

ここでは小山田が十代の頃にちょっと笑って済ませることのできないひどいいじめに加担していたということ自体は、彼が雑誌に語っている通りの事実として扱う。そして、僕は、小山田のファンとして、今回、世間さまがよってたかって小山田をボコして開会式の作曲スタッフを辞任せざるを得なくしたのは、仮にいじめが事実であったとしてもやっぱり何かおかしいんじゃないか、と感じていて、そういう立場から、なぜ、何がおかしいと感じるのかを自分自身に問いかけようと思う。

ポイントはいくつかある。
まず、過去に何かをやらかした人間は、いつまで、どの範囲でその十字架を背負い続けなければならないのかということ。
第二に、過去に何かやらかしたことと、彼がプロとして発表した作品との間には何か関係があるのかということ。
第三に、ポップ・カルチャーにおいてそもそも清廉性や無謬性は必要なものなのか、品行方正なものなのかということ。
順に見て行こう。

やらかした人は何の仕事をすればいいのか

小山田はいじめをやったヤツだからオリンピックの開会式で使われる音楽を作らせるのはダメだという理屈がまずよく分からない。

なぜダメなのか。過去にやらかしたからなのか、オリンピックだからなのか、小山田のいじめが障害者を対象としたものだからパラリンピックにふさわしくないということなのか。
過去にやらかしたことと、今、ある特定の仕事をすることが許されるかどうかということはどういう関係があるのか。

オリンピックの開会式はダメとして、では彼がこれまでやってきた音楽活動はいいのか、ダメなのか。それなりの部数のある音楽誌で何年も前に公開され、別に隠されることもなくその気になればいつでもアクセスできる記事がありながら、それでもまあ普通に音楽活動をしてきたのに、オリンピックの仕事を受けるとそれも急にダメになるのか。それともオリンピックだからダメなのか。

過去にやらかした人は、どれくらい肩身狭く生きればいいのか。やっていい仕事とあかん仕事があるのか。ひっそりと人目につかない仕事ならよくて、表舞台で脚光を浴びる仕事はあかんのか。それって仕事をランク付けしてる感じがしてすごく気分が悪い。

罪を犯したと裁判で判決を受けた人ですら、課せられた罰を受ければその後は社会に復帰することが許される。実際には偏見にさらされ、再就職が難しかったりいろんなイヤな目に遭ったりするんだろうけど、それは本来はあってはならないこととされているし、我々の社会は過ちを犯した人間を寛容に受け入れるべきことを是としているはずではないのだろうか。

にもかかわらず、刑事罰を受けた訳でもない小山田が、やらかしから何十年もたった今も「ある種の」仕事から排除されなければならない理屈がよく分からない。小山田だって生活を維持するために何か仕事をしてカネを稼がなければならない。やらかしを理由にあらゆる職業、あらゆる仕事から排除されなければならないのならそれは社会的な抹殺だし、そうではない、オリンピックみたいな表舞台に出てくるなということだというなら、表舞台とそうでない仕事との区別は何なのか。

過去にやらかした人は何の仕事をすればいいのか。それはだれが決めるのか。いじめをしたことがあるからオリンピックの開会式に携わらせるのは「ふさわしくない」という考え方の根底には、仕事のランク付けに基づく差別的な職業観があるのではないか。

たとえば、小山田からいじめを受けた本人が、「あんなヤツは顔も見たくない。オレの目の届くところに出てくるのはやめてくれ」という気持ちになることはもちろん理解できる。しかしいじめの当事者でもない第三者が、小山田がオリンピックの開会式の仕事を受けることを「ふさわしい」か「ふさわしくない」か決めつけることには何の意味もないと思うのだ。

やらかした人間は人目につくところに出てくるな、ということなら、これまで彼がやってきたアーティストとしての活動はどうなのか、あるいは彼が音楽活動とはまったく別の領域で、例えば外資系コンサルで年収5千万円くらいもらう高給取りになったり事業を起こしてIPOで百億レベルの資産家になったりするような成功人生を歩むこともダメなのか。

やらかした人間はおよそ成功すること自体まかりならんというなら、彼らはどんな失敗人生を送ればいいのか。どんな人生が失敗人生なのか。それって特に悪いこともしてないのに失敗人生を送っている人にとても失礼な話ではないのか。

あと、いじめにせよ何にせよ、そういうあとでダメ出しされるようなやらかしと無縁の人生を送っている人なんてそもそもいるのか。クラスにいじめがあったときに、積極的に加担した訳でもないが遠巻きにして自分に火の粉が降りかからないように知らぬふりを決めこんでいたくらいのことは多かれ少なかれ思い当たる人もあるのではないのか。いじめを傍観してるのはいじめてるのと同じことだ、と言われている。

そうした人まで全部社会から排除されなければならないのだとしたら、社会はおそらく成り立たないし、だれもが敢えて成功を避けた失敗人生を送らなければならなくなる。そしてもし、「いやそんな極端なことは言ってない。小山田のケースはやったことがひどいしオリンピックみたいに脚光を浴びしかも公的な仕事にはふさわしくないということだ」というのなら、その「ひどい」とか「ふさわしい」とかの判断はだれが何を基準に行うのか。

それって結局のところリンチ(私刑)に他ならないんじゃないかと思う訳ですよ。

やらかした人間の作品は無価値なのか

仮に小山田がやらかしたことがどうしても社会的に許容されないことで、小山田自身は社会的に抹殺されなければならない(あるいは「表舞台」から姿を消さなければならない)として、彼がこれまで作り、発表した優れた音楽は無価値になってしまうのだろうか。そして、それは聴かれてはならないものとして、顧みられない作品となってしまうべきなんだろうか。

これまでもアーティストがたとえばドラッグで捕まるたびにその作品は発売が中止されたり、バックカタログからひそかに外されたりしてきた。騒ぎが大きくなって手に負えなくなる前に「可燃物」はかたづけておこうというメーカーの考えも分からなくはないが、仮にアーティストが罪をおかしたとしても、彼/彼女が作った作品までもが社会から「隠される」のは必要なことなのか。妥当なことなのか。

かつて、ある人が作曲したとされていた音楽作品が、実は他の作曲家に書かせたものだったという騒動があった。それが発覚したとき、それまであちこちの立派な式典やら演奏会で演奏されていた作品が、急にプログラムから外されて「隠されて行く」異様な光景を我々は目の当たりにした。

作品の価値とはいったい何なのか。音楽は作品それ自体の力ではなく、「だれがそれを作ったか」によって評価されるのか。作曲者が違っていたのなら、本来の作曲者をクレジットしたうえで演奏すればいいじゃないかと当時の僕は思った。それとも他人の作品があたかも自分のものであるかのように世間を欺いていたダーティな経緯が、作品そのものを「汚染」したとでもいうのだろうか。

今回の件でも、仮に小山田が社会的に許されないことをしたとして、彼の作品もまた社会から消されなければならないのだろうか。オリンピックのスタッフを辞任したのだから彼が提供したマテリアルも演奏できないというのはまだ何となく理解できるとしても、例えば彼が過去にテーマ曲や挿入曲を提供したテレビ番組が打ち切りになったり、彼が参加しているバンドの新譜が発売中止になったりするのは筋が通らないと思っている。

優れた音楽作品、芸術作品が、一般の基準から見ればクズのような人間から往々にして生まれてくることを我々は知っている。例を挙げるまでもなく、今日名作と言われている音楽、美術、文学などの作品のうち結構な数のものが奇人、変人、犯罪者、倒錯者の手によってものされたものであるのは衆知の事実だ。

しかし、だからといってそうした作品の価値が、作者の品行のゆえに社会から否定されることはないし、あってはならない。小山田自身の過去のやらかしと、彼がアーティストとして発表した作品の価値は分けて考えるべきものだと思う。

僕はフリッパーズ・ギターやコーネリアスの音楽を好んで聴いてきた訳だが、それは小山田(や小沢健二)が人間的に品行方正で尊敬に値する人格者だからではなく、その音楽が僕にとって必要かつ重要で聴くに値するものだと思うからだ。

だからだれかが僕に「でもあいつはこんなひどいことをした最低の野郎なんだよ」と教えてくれたとしても、「ふ~ん、それは大変だね。でも音楽は素晴らしいよ」としか言いようがない。

それだけのことじゃないかと思うんだけど、世間ではどうもそうではないようなのがとても不思議なのだ。

ポップ・カルチャーは無謬なものか

小山田は、いうまでもなくフリッパーズ・ギターというバンドのメンバーとして、その解散後はコーネリアスと称するソロ・プロジェクトを通じて、ポップ・カルチャーの領域で実績を残してきた人である。彼が関わってきたロック、ポップスといった表現領域はしかし、そもそも行儀のよい大人の音楽ではない。

ロックンロールの開拓者であるエルヴィス・プレスリーは歌いながら踊るその腰の動きが卑猥だとして良識ある人たちから厳しく批判された。ロックは本質的に、権威や秩序、分別ある大人に対する反抗や、常識的なものへの違和感をその重要な構成要素としている。メイン・カルチャーの「正しさ」に対して「なんかそれおかしくないか」と異議を申し立て、理屈ではうまく説明できない「イヤな感じ」や「拒否感」をビートやメロディの助けを借りてとりすました常識人の喉元に突きつけ、「間違いがないこと」のために汲々とするエラい人たちのこっけいさを笑い飛ばす。

そのプロセスにおいて偽悪的な態度や冷笑的なスタイル、決して人としてはほめられない、政治的に正しいとはいえないような振る舞いも、常識に揺さぶりをかけるサブ・チャネルの役割ゆえに許容され、いやむしろ求められ、評価されてきた歴史がある。もはや知らない人も多いと思うが、ロンドンオリンピックの開会式でライブ・パフォーマンスを披露した元ビートルズのポール・マッカートニーは、1980年に来日した際、大麻を持ちこもうとして成田空港の税関で逮捕され、9日間拘留されたあげくイギリスに送還されてしまった。もちろん公演はキャンセルされた。

もちろん僕は、マッカートニーの大麻取締法違反や小山田のいじめがいいことだと言っているのでも、そんなことは些細なことだからもう許してやれと言っているのでもない。そうではなく、ただ、ポップ・カルチャーはもともとそういう猥雑さ、いかがわしさ、いい加減さをその本質とした表現形態であり、だからこそその表現に喚起力や迫真性、メイン・カルチャーにはないリアルさが生まれるのであり、そこに品行方正さ、政治的正しさ、あるいは無謬であることを求めるのであれば、ロックやポップスなどは最初から存在していないということなのだ。

ポップ・アーティストを「おまえはひどいいじめをした前歴のあるクソ野郎じゃないか」と非難するのは、うんこに対して「おまえは臭いじゃないか」とか「おまえは汚いじゃないか」と言うのと同じようなもので、「いや、もともとそういうもんですけど。だからこそ子供もキャーキャー言うて喜ぶんですけど」と言われて終わりのものだ(ヘンなたとえで申し訳ない…)。

ポップ・カルチャーの華々しい上澄みだけをすくい取り、本来ならそこに必然的に含まれているはずの反社会的なモメントはうまく漂白し、脱臭し、洗浄しようとするのは誠実な態度ではない。これはどちらかといえば小山田を起用しようとした組織委員会とかそっち側の問題だと思うんだけど、ポップ・カルチャーを開会式のモチーフにしようというなら、「そいつにはいじめの過去があるぞ」って言われても「いや、まあ、そういうこともあるんじゃないですか」と対応すべきだし、それができないなら初めから共産主義国のマスゲームみたいなスクエアでクリーンなヤツでもやってればよかったのではないか。

ポップ・カルチャーが我々にとってリアルなのは、それが誤謬を含んだアート・フォームだからである。誤謬を含み、悔恨を含み、絶望を含むからこそ、同様に誤謬から自由ではあり得ない我々自身を打つのである。

さいごに

僕はずっと小山田の音楽を聴いてきた人間なので、当然彼に思い入れもあるし、ポジション・トーク的な面もあると思う。これが小山田でなければ同じように思ったかどうかも正直自信はない。

ただ、過去の個人としてのやらかしを理由にして現在の仕事を奪ったりその作品の価値を否定するのはやはり何か違うと感じるし、そもそもポップ・カルチャーなんてそんな高尚なものでもないだろうというのが、この文章の言わんとするところである。

もちろん、いじめは許されないことであるという点に異存はないし、小山田がやった(と誌面に書かれている)ことを正当化するつもりもまったくないが、それを彼の作品や活動とリンクさせるのは筋が違ってないか、ということ。

「もう何十年も前のこと」「たいしたことじゃない」「その後仲直りしている」「謝罪している」というような論点は僕にとってはあまり意味のないことなので触れてない。彼のやったいじめ自体が許されるかどうかは別の話なので他でやってもらえればいい。僕はただ、いじめがあったことを所与として、それが彼の職業的キャリアを侵食することに対して違和感があるだけなのだ。

なんかもっと言いたいことあった気もするけど今日はこれくらいにしておく。

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