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後醍醐天皇は一代主であった

後醍醐天皇と花園天皇は、一代主という同じ立場にあった。

花園天皇と醍醐天皇は嫡流の兄の弟で、嫡流の兄の子供に皇位を伝えるためのワンポイントリリーフの天皇なのである。後醍醐天皇が自分の子孫に好意を伝えたかったように、花園天皇も自分の子供に皇位を伝えたかったかもしれない。けれども、自分のそういう気持ちを押し通すと大混乱が起きる。

鎌倉幕府と持明院統と大覚寺統が完全に合意したかどうかに疑問が残るとはいえ、一応のコンセンサスはできているわけだからそれを破壊してしまうと大混乱が起こる懸念があった。

花園天皇はそういう大混乱が起こることを恐れた。しかし、後醍醐天皇は、持明院統・大覚寺統・鎌倉幕府の合意を破壊してでも、自分を先頭にした新しい天皇の正統を作り出そうとした。

1321年、後宇多上皇は政治から身を引き、後醍醐天皇の親政が始まる。1324年、後宇多上皇が崩御すると、皇太子の邦良親王が後醍醐天皇に譲位を迫るようになる。「叔父さんは一代限りの天皇ということわかってますか、大覚寺統の嫡流は私ですよ、早く譲位しなさい」と。大覚寺統の貴族たちは邦良親王に賛同する。

後醍醐天皇がそういう動きに対抗するためには、持明院統と大覚寺統と鎌倉幕府の合意自体を壊してしまわなければならない。つまり、鎌倉幕府を倒すということになる。

1326年、皇太子の邦良親王が国を亡くなると、鎌倉幕府は持明院統の量仁親王を皇太子にすると決める。鎌倉幕府は文保の和談に基づいて、大覚寺統の後醍醐に持明院統の皇太子を立て、その次は大覚寺統の皇太子に戻すというこのコースを想定していた。

後醍醐天皇はそれを壊すために鎌倉幕府打倒に立ち上がる。

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