『みゆき』が読めなくなってしまったこと

今日までAmazonプライムリーディングであだち充作品の1~3巻が読めるようになっているのを知り再読している。私はド定番だけれど『タッチ』が好きだ。はじめて読んだあだち作品も『タッチ』だった。むかし夕方に再放送していたのでアニメも見ていて、アニメの方はプライムビデオでも見られるから最近もちょこちょこ見たりしている。
あだち充作品の”間”の使い方のようなものを、何度読んでもすごいなぁと思う。あの独特の”間”があることで生まれる余韻。あとよく言われることかも知れないけど、主人公やヒロインの表情が決して大きくは動かないのに、ものすごく感情を(読者に)読ませてくるところもやっぱりすごい。こういうのは漫画じゃなきゃできないと思う。
そういうリスペクトがあるのを前提に、『みゆき』が読めなくなってしまったことを書きたい。

『みゆき』をはじめて読んだのはたしか中学生のころだったと思う。友人から借りて読んだ。最初は『タッチ』を読んで、おもしろかったと伝えたらじゃあ次はこれと『みゆき』を貸してくれた。『みゆき』は主人公と(血のつながっていない)妹である「みゆき」と、主人公に思いをよせる同級生「みゆき」との三角関係を描いたラブコメ作品で、あだち充作品の中でもスポーツが絡んでこないラブ特化型の作品だ。発表順としては『タッチ』の一つ前の作品にあたる。

面白かった。個人的に妹の「みゆき」のキャラクター設定がすごく好きだったし、ストーリー展開も楽しかったし、正直野球にはそんなに興味がなかったのでスポーツが絡んでこないというのも『タッチ』よりも身近で読みやすかったんだと思う。でももやもやした。なぜもやもやするのかその時ははっきりとわからなかったけれど、もやもやした。そしてこのもやもやしたものは、当時の漫画を読んだり映画を見たりドラマを見たりしたときに何度も感じたことのある類のもやもやだった。『タッチ』でも感じなかったわけではないけれど、『みゆき』に感じたもやもやはその比ではなく、だから私の中で『みゆき』という作品は潜在的には私のツボを押さえた作品であるにも関わらず、『タッチ』を超えてはこなかった。

(以下、ややこしいので妹のみゆきを「みゆき①」同級生のみゆきを「みゆき②」とする。)

先週『みゆき』を再読していて、そのもやもやの正体がわかった。もやもやというよりは嫌悪感だった。相変わらずやっぱり話的には面白いし、絵も好きだし、例の”間”も最高なんだけれど、『みゆき』には「気持ちが悪いな」と思わせる部分がかなり多かった。正直ここで「気持ちが悪い」という言い方をするのにかなり迷いがあったけれど、やっぱりその言い方がいちばんしっくりくるのであえて書く。
時代的なもの、としか言いようがないんだけれど、女の子のお尻を平気で触ったりパンツを見たりそれをムフフみたいな感じでそれこそ笑いどころにしている箇所が散見されるのはもう覚悟の上というか、もちろんこういうことについては時代的なものと受け流すのではなくきちんと反省するべきだと思っているけれどもそれに関しては『みゆき』だけを責めることはできない。こういうのは笑えない、誰か(この場合は女の子)が嫌な気持ちになったり不快感を露わにすることを「面白い」ものとするのは「面白い」ことじゃないと私たちは今や知っているけれど、そうではない認識の上で書かれた作品が当時の物にはごまんとある。
しかし『みゆき』を「気持ちが悪いな」と思う理由はそういうシーンがかなり多いのに加えて、いい歳をしたまともなはずの大人の男がスケベ心丸出しで未成年の女の子に近づいている(そしてそれを面白いこととして描いている)というのがある。例えばみゆき②の父親がみゆき①を頻繁にデートに誘っては連れまわしたりするのだが、この父親は警察官だ。また、みゆき①の通う学校の教師もみゆき①に明らかな下心ありきで執拗に近づいてくる。この教師は結局見合い相手と結婚するのだが、結婚に至ったそもそもの原因はみゆき①と勘違いしてその相手を(それも布団の上で)抱きしめてしまったことにある。かなり大雑把に書いているけれど、もちろん作品内ではもっと詳細に色々あり、あだち充のやわらかい絵で描かれていても尚「気持ちが悪い」と思わせる場面が多かった。それでそういうことがいかにも「面白いでしょ?」みたいな感じで描かれている。
ああこういうの知っているなと思った。最近は少なくなったけれど、女の子に飲み会の席でスケベなことをわざと言ったりやったりするおじさんのテンションそのものなのだ。念のため言っておくとこれはおじさんだけじゃなくておばさんパターンもある。若い男の子に対してセクハラまがいの発言をしているおばさんも一定数いる。彼ら彼女らの多くはそれらを「面白い」と思われるためにやっているし、そういう「面白い」キャラや物語をたくさん摂取して育ってきたんだろうなと思う。
『みゆき』をはじめて読んだときに感じたもやもやは、そういう「面白いでしょ?」に対するもやもやだったんだと思う。時代が変わって、今の私はそれが「いや面白くない」「気持ちが悪い」と言語化することができているけれど、当時はそれがうまくできなかった。たかだか十五年前くらいなのに、あの頃はまだそういうのを「いや面白くない」「気持ちが悪い」と認識したり表明したりできる時代ではなかった。「どうだった?」と貸してくれた友人に訊かれ、「すっごく面白かった!」と答えたのを今でも覚えている。
「これは面白いものである」という共通認識に対して嫌悪感を表すのはむずかしい。それはつまり「この面白さがわかんないやつ」という風になるからだ。でもその「面白さ」が他者を不快にさせることに起因しているんだとしたら、「わかんないやつ」でいることの方がずっとましなのに。本当は。
『みゆき』へのもやもやが言語化されてしまった私は、『みゆき』を読み進めることができなくなった。一度読んだから結末を知っているというのもあるのかも知れないけれど、それよりも「気持ちが悪い」とこれ以上思いたくないなと思ってしまった。いいところもたくさんあるし、むしろいいところの方が多い作品だと思うんだけれど、だからこそ惜しい。というか悲しい。

この手の話題について書いたり話したりすると、今はそういう時代だから~と言って揶揄じみた調子でいなす人がいるけれど、だとしたらいい時代になったもんだ。私自身も先に「時代的なものとしか言いようがない」と書いたけれど、本当にそれはその通りなのだ。でもだからこそ今はちゃんと目を向けて反省しなければいけないことなんだと思う。当事者だった人たちだけではなくて、それをただのもやもやと片づけてしまっていた自分自身もだ。時代を前進させていくためにはつねに過ぎた過去を反省していくしかないのだから。

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