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数字にとらわれない

自分はこうありたいと貫くことは、数字にとらわれずに生きることだと言えるかもしれない。


数字は規則性を生み、「おそらくこうなるだろう」という予測を可能にさせ、先行きの不安を和らげてくれる。

数字は不安を和らげてくれるが、安心に取って代わるものではないと思う。

感染者数や、検査数、病院のベッドの数を追うことで、見立てをし、起こりうるリスクとその対策に役立てることができるうように、日常生活においても、僕たちは数字を頼りにしている。

朝の身支度では、天気予報アプリで示されている降水確率をもとに、傘を携帯すべきかどうか決める。

会社に行けば、当月のデータを、4半期、前期のデータと比べながら、仕入れをしたり、販促をかけたりする。

けれども、数字ばかり追っていると、心が乱れてしまう。

数字はリスクを抑えてはくれるけれど、全てをまかなえはしない。

数字に安心をもたらす力があるのであれば、コロナウイルスの発生を未然に防ぐことができたのではないか。

もっと個人的な話をすれば、僕のnoteは、時たまよくわからない伸びをすることがある。なぜ、これがよく見られたのか、反応があったのかは全くわからない、という記事がある。

なんの脈絡もなく、降って湧いたようにポンッと伸びる。

思い当たることがあるとすれば、ただひとつ、「書き続けた」ということだろう。

時間をかけて書いた記事に、これっぽっちの反応がなかったときも、10数件のビュー数しかなかったときも、とりあえず書き続けた。

むしろ数字を追っていたことで、反応がないとか、ビュー数が少ないなどと意気消沈し、心が乱され、書くことへの意欲が削り取られていた気がする。

僕がnoteを書くのは、自分自身の癒しとメンテナンスのためである。
だから、書き続けることに意味があるのであって、継続することに価値があると考えている。

数字に価値を置き、効率を求め、損切りをすることよりも、継続することに価値がある。その姿勢を崩さないことが、いまの僕にとっては、もっとも誠実な態度であると決めていた。

初めは、継続の意欲を保つために、アクセス状況を日次で記録し始めた。そして、それは大いに役立った。

でも、数字ばかり見ていたら、心が乱れた。

良いことも悪いことも、それは突然やってくる。
数字には表れないように思う。

今の世の中で、数字にとらわれない生き方は、勇気がいることだと思う。

降水確率も、売上データも、感染者数にもとらわれないでいるには、それなりの覚悟と責任が伴う。
ただ、個人によって尺度は違えど、「覚悟と責任のない生き方」は、幸せなのだろうか。

むしろ、数字にまみれ、頼りつづけた結果が、人生に虚無感を抱かせ、メンタルヘルスが叫ばれる世の中をつくりあげてしまっているのではないのだろうか。


自分はこうありたいと貫くことは、数字にとらわれずに生きることだと言えるかもしれない。


この記事は、次のラジオにインスパイアされて、書いたものです。



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