人間が生まれてきたのは、始めるためである。
「失敗を怖れずに、やってみる。」
ポジティブな言葉だ。
できれば、何事にもそうありたいし、そう生きていきたい。
だけど、現実のぼくの行動パターンは、それとは随分とかけ離れてしまっていることが多い。
自分が思っている以上に怖がりであることに自覚が生まれたのは、ここ1年のことだ。自分で自分の仕事をつくる道を選んで以来だ。
仕事を自分でつくるという生き方は、自分で自分に責任を持つことであり、何事も自分で決めなければならない、ということだった。
ぼくは、想像していた以上に、決めることへの怖れを感じるようになった。
というか、これまでの人生は、決めることからできるだけ遠い場所にいようとし続けてきただけだったことに気がついた。
ぼくは、うまくいくことよりも、失敗しないことを切望しているらしかった。情けなく、ダサいやつだった。
ぼくの頭の中には、たくさんの選択肢があったし、どれを選んでも正解だという理屈がインストールされていた。決断こそがもっとも大切なことであり、決断を尊重することが、ぼく自身を尊重することに等しいと思ってきた。
つもりだった。
いざ、ものごとを動かし、前に進み始めたぼくは、事あるごとに決断の舞台に立たされるようになった。そのたびに、自分はいかに知ったかぶりであったかを思い知らされた。
怖さと情けなさに押しつぶされて、閉じこもってしまうことがよくあった。
そこから抜け出すには、頼りにしてきたはずの本は役に立たず、結局は自分なりの脱出方法を編みだすしかなかった。
経験を積むことで、わかったことがある。
仕事をつくるとは、自分の生き方を決めることである。
自分の生き方を決めるとは、自分が何を怖れているかを認めることである。
怖れはなくすものではなく、認め、受け入れるものであって、そのプロセスは自分で編みだすことでしか得られない。
借りたり、転用したりできるものではなく、自分でつくるしかないのだ。
「失敗を怖れずに」とは、怖れないようにまで、強くなることではないと思う。
失敗を怖れつつも、歩みを止めずにいられる、というのが実際のところであって、それを下支えしてくれるのは、怖れに向き合ってきた過去の経験と、自分で編み出したものの数だと思う。
いまでもぼくは、失敗を怖がるやつだけど、それを情けないとは思わないようになってきた。
なんだかんだで、1年間、歩み続けられてきたのだから、「情けない」と切り捨ててしまう行為は、ぼくと、ぼくを支えてくれている家族に失礼なことだからだ。
こんなふうに考えられるようになっただけでも、生きていてよかったと思える。
最後に、ハンナ・アーレントが語ったとされる、この言葉を紹介して終わりにしたい。
「人間が生まれてきたのは、始めるためである。」
この記事は、次のラジオにインスパイアされて、書いたものです。
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