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ネコに避けられるネコ好き ヒトに嫌われるヒト好き

体の弱った猫は飼い主でも人を避ける。人気のない物陰に隠れてひたすらじっとしてる。普段可愛がってもらってる人でもダメ。でも母と自分にだけは心を許す。他の人は自分の可愛がりたいように可愛がるけど、この人たちはぜったいに自分の嫌がることしないって信用してる。

つまり愛情じゃなくて共感力の問題らしい。ネコのキモチになって考えられるかどうか。母と自分だけはこれができるらしい。それが当たり前だと思ってたから驚きだけど、ネコのキモチがほとんど理解できない人たちがいるのである。

となると、人間についても同じことが言えるかもしれない。ヒトのキモチになって考えられるかどうかという共感力には、かなり差があるんではないか。もちろんネコはヒトにとっては他者であるから余計にわかりにくいかもしれない。ヒト同士であれば共感はもっと容易にできるかもしれない。他方で、ヒトのキモチの方がネコのキモチよりヨリ複雑であり、それ相当の共感力がいるとも言えるかもしれない。

自分は人の気持ちをよく理解する人間であると思ったことなかったけど、ネコの反応を見てから観察してると、やはり違いがあるかもと思う。ネコに避けられるネコ好きは、意図せずに人を傷つけるようなことを言ったりやったりすることが多い。ヒトに避けられやすいヒト好きがいてもおかしくない。

だから猫に好かれる人の方が好い人かというとそうでもない。共感力ある人は相手の気持ちの傷つけ方もよく知ってる。相手が何を期待してるか読みとった上でいちばん効果的な裏切り方する。要するに意図的に他人の気持ちを踏みにじる。こっちは自分にもいくらでも思い当たる節がある。

共感力と悪意は容易に共存できるから、共感力ある人=善良な人じゃないんだな。むしろ鈍感な人の方が不注意で人を傷つけることがあっても善良かもしれない。つきあう相手を選ぶときも、つきあってる相手を評価するときも、はたまた失言なんかした公人や芸能人を批判するときも、この点を考慮に入れた方がいいかもしれないよ。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。