見出し画像

どこかで見た風景

米国の大学院にボスニア人の友人がいた。ナショナリズムを研究しているという自分の評判を聞いたのか、向うから文献を貸してくれと言ってきたのが縁で仲良くなった。

友人といっても、「貸したものが返ってこない文化」という記事で話したように、貸し借りをわざと清算せずに仲を深めていく人々であった。貸し借り関係はむしろ友情を害すると考える自分などはこれを避けたので、向こうはこちらが仲良くなろうとしてるのになかなか仲良くしてくれないともどかしく思っていたかもしれない。

自分がこれに思い至ったのは米国を離れた後である。世界を知らないということがどれだけ社交範囲を狭め、人生の可能性を貧しくしうるかという一例であるかと思う。世俗的なものをバカにして教義的な教養を身につけるだけでは、むしろ自分の視野を狭くしてしまうこともありうるのであるから、学問というのは油断がならん奴である。

それはともかく、そのボスニア人の友人は敬虔なムスリムであった。ボスニアはユーゴスラヴィア連邦を構成する一国であったが、連邦が崩壊すると、ムスリム、セルビア人、クロアチア人に分かれて内戦が生じた。そしてマイノリティとしてのムスリムが特に虐殺の対象となったのである。

だが、ムスリム、セルビア人、クロアチア人という民族のちがいは人種的なものではない。ムスリムはイスラム、セルビア人はギリシャ正教の流れを汲むセルビア正教、クロアチア人はカトリックという風に宗教がちがう。ムスリムの人たちはオスマン帝国の統治化で改宗して官吏などに登用された人々であるから、政治的にも文化的にももとはエリートであった。それがまたセルビア人やクロアチア人の恨みを買ったらしい。

自らを「ボスニヤック」と呼ぶボスニア人ムスリムたちは、ある日本人に怨みがある。ユーゴスラヴィア問題で国連事務総長特使を務めた明石康代表である。虐殺を止めるためにムスリムが米国の軍事介入を求めたのに対して、明石代表はベルグラード空爆に反対したのである。明石さんには明石さんなりの理由があったのであるが、空爆がすぐに行なわれていたら多くの命が救われたのにと、ボスニヤックたちの方は今でも恨みに思っている。

だが、別に日本人一般を憎んでいるわけではないそうだ。少なくとも、自分はそれを感じさせられたことはない。一度はその友人宅を訪れたら、たまたま内戦時に同志だった男たちが集まっていた。その中に目つきの鋭い人がいて、内戦で片足を失った闘士であり、われらのよき指導者でもあり、また民族詩人でもあると紹介された。こんな人を前にすると、自分も自然に頭が下がる。やはり明石代表の話を聞かされたが、だからといってお前さんを非難してるんじゃないよ、と笑いながらつけ加えてくれた。恐らくホモソに近い男同士の友情の世界で、わしらの同胞が友として認めた者ならば、わしらにとっても友だという気遣いに溢れる人々であった。これも自分があまり知らない世界である。

この友人に息子が一人あった。この息子は父親とはぜんぜんちがう世界に生きている。ムスリムであるといっても白人であるから、顔だけでは何人だかわからない。日本では高校生くらいにあたる息子は米国育ちだから、洋服姿でアメリカ人と区別がつかない。立派な髭をたくわえてイスラムの学者風の父親とはぜんぜんちがう。ぜんぜん親子に見えない。背が高いイケメンで、しかもサッカーであったかバスケットボールであったかスポーツマンでもあったと思う。アメリカ人の女の子からキャーキャーいわれそうなタイプで、青春を謳歌してそうであった。反抗期でもあるし、しつけの厳しい父親と反りが合わない。

名をティムル君といった。なぜか忍者が好きで、学校で日本語を勉強していた。日本語の家庭教師を紹介してくれと頼まれて知り合いにお願いしたのだが、授業料をなかなか払ってくれないと苦情を言われて弱ったことがある。どうやら親から預かった授業料を別の目的に使いこんでしまうらしい。いい加減な奴なのだが、なぜか憎めない。

自分も何度かスカイプで家庭教師をしてやったことがあるが、ときどきオヤジの悪口を聞かされる。

「父は多くの困難を乗り越えてきた人でエライと思う。そういう人が形式を重んじるのもまあ理解できる。でも、今は時代がちがうんですよ。古臭い形式ばかりうるさく言ってても何の役にも立ちませんよ」

オヤジからはこう聞かされる。

「息子は形式なんて要らないって言うんだけど、オレはよく言ってやるんだ。形式が無ければ実質もない。形式をきちんとするから実質が生まれる。形式があるから実質があるし、実質があるから形式もあるんだ。何事においてもそうなんだって」

なんだか少し前の日本でも聞きそうなやりとりである。この「形式」が何であるのか二人ともはっきりは言わなかったのであるが、自分はおそらくイスラムの信仰などボスニヤックの伝統に関することであろうと想像した。

ここにあるのはまさに「父と子の政治」であった。ティムル君は反発しながらも父親を尊敬している。そして、ボスニヤックのアイデンティティを否定することは、彼のような経験をした人間の生き方を否定することになるとうすうす感じている。しかし、自分自身の人生にとってはそのアイデンティティが少し邪魔なんである。

ティムル君には姉と、まだ小さな妹が二人いる。姉も背かすらりと高く、びっくりするくらいの美人であるが、スカーフをかぶっていて髪を見せない。髪まで見せたら恐らく十人が十人とも振り返るような器量である。それで自分はスカーフの意味がわかったような気がした。小さな妹はまだスカーフをしていないから、おそらく女になるとその美しさを隠すためにスカーフをつけないとならないのである。

服装もティムル君とはちがう。アメリカ的なのは下がデニムであるところくらいで、地味である(が、見えないところでお洒落してたりする)。一目でムスリムとわかる。学校でも成績がつねにトップの優等生であるが、勉強ばかりではない。ムスリムの学校の先生で忙しい母を手伝い、家事もしっかりこなす。いまどきの娘らしからぬしっかりした子で、両親の信頼も厚い。うちの娘とそう年は変わらないし、うちの子もしっかり者と言われていたが、二人並べると外見も中身も年の離れた姉・妹にしか見えない。

それでも米国では主流から外れた者同士の共通の悩みもあるせいか、うちの娘と意気投合して仲良くなった。それでうちにスリープオーヴァーに行きたいとうるさくせがんだらしい。スリープオーヴァーというのは、週末などに泊りがけで友だちの家に遊びに行くことである。子どもだけで外で遊ぶ機会が少ない米国では、このスリープオーヴァーというのが子どもの楽しみの一つなのである。厳しい親たちもうちなら大丈夫であろうと踏んでくれたらしく、大事な娘を泊りがけで預けてくれた。

そのとき自分も姉と少し会話する機会があった。親には従順であるし、弟の親に対する態度には批判的なのであるが、だからといって無批判に伝統を受け入れているわけでもない。それゆえに、多分弟よりヨリ複雑な内面生活があり、それを自分でも意識している。親にもアメリカ人の友だちにも言えない悩みがある。だから、うちの子のような心の友を求めている。自分はそう感じた。

ちなみに、彼女は同年代のアメリカ人や日本人よりずっと芯が強そうだし、いろいろなことに意見を言えるだけの主体性があった。今日の社会では伝統的なしつけを受けた女たちは主体性を欠くというのがだいたい常識になっているが、どうも現実はより複雑である。

後になってこのボスニア人一家のことを思い出したとき、自分はある感慨に打たれた。日本でも洋服姿のわがまま息子が和服姿の父親と衝突してる横で、しっかり者に育てられた娘たちが和服姿で父母に仕えてるっていう場面がよく見られた。それとよく似た過程を、ボスニア人の移民たちもまた経つつあるようなのである。

日本でも公の部分は洋化が進んだが、私の領域では和風が残った。お父さんたちも会社へは背広を着ていくが、家に帰ると和装であったりした。女は私の場に押し込められていたから、女の近代は服装でも文化でも最初から洋風と伝統が入りまじった複雑なものであった。

今日においても、これが完全に消えたとはいいがたい。男は近代をすでに完成されたものと捉え、ポスト近代などと気軽に言えるのであるが、女の近代はまだ未完成というか、そもそも近代自体が相対的なものなのである。この伝統-近代関係に欧米と祖国との関係、そして男女の関係が重なってくるから、女の悩みの方が複雑であってもおかしくない。公私に厳密な区別を要求するリベラリズムのような議論は、ときにこの女の悩みを置いてけぼりにしてしまう。それだけでもフェミニズムというような学問分野というかパースペクティブが存在する意義が十分にある。

明石代表以外には今まで何のつながりもないと思っていたボスニア人と日本人の間にも、どうやら何か共通のものがある。その「と」とは、インド人作家の書く現代小説なんかでお目にかかるものとも関係がある。しかも、それが今日日本に生きるわれわれに反省を促すような内容を含んでいそうである。こんなたわいのない思い出話でも、聞かないよりも聞いといた方が得だと思ったのもそういう次第である。

ここから先は

0字

¥ 100

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。